『天理教ブログ』 神の道

17年間、道一条で通させて頂いた中で芽生えた『神様を信じ、おさしづに従って通る心』また『神様の思わくである世界たすけの為に、ほんの少しでもお役に立ちたい』という心をもって、このブログを書いていきたいと思っております。

このお道は全て心一つ。人間心で「どうすればいい、こうすればいい」という形で通るような薄っぺらな道ではありません。神様のおさしづに従って通らせて頂こうとする心を貫く信念は神様に届き、神様がわかるように、心の成人が出来るようにお連れ通り下さいます。その結果、お道に対する見方が全く変わって来るのです。

※父親が研究している「おさしづは宝」のデータが御入用な方は[fujim1980@gmail.com]までメールを下さい。

教祖伝逸話編に

教祖が、ある時、山中
こいそに、「目に見えるほしいか、目に見えんほしいか。どちらやな。」と、仰せになった。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳が頂きとうございます。」 と、お答え申し上げた。

というお話しがあります。

今回は「目に見える徳」と「目に見えない徳」について記事にしていこうと思います。

そもそも、「徳」とは物質的なものではないので、目に見えるものではありません。なので教祖のご質問の意図を思案させて頂く為には、徳の本質を知らなければならないと思います。

教祖が徳について、このようなお話をして下さったそうです。ある日、教祖がお屋敷で勤めている方に、大小様々な器を庭に置くように御指示されたそうです。その後、雨が降ってきたのですが、その時に教祖が「天の与えは皆平等であるけれど、器の大きさによって与えが変わる」と仰せになられたそうです。これが「徳」というものだそうです。「徳」とは「器」なのです。教祖は、その徳(器)に何を入れたいかという事をお聞き下さったのだと思います。

目に見える徳を入れて頂くなら、地位や名誉、財産をお与え頂くという事になるのだと思います。現在の
お道では「お金がある」「地位や名誉がある」事が徳のある姿であり、お道を一生懸命信仰してお徳を積んで成功しようという方向に、天理教組織を筆頭に大多数の信者さんが進んでいるように見えるのです。そこまであからさまに出世しよう、財産を築こうと思わなくても、少しでもお道でお徳を頂き、自分の思う通りに事が運ぶよう、幸せに、結構になれるよう、親神様から何かしらの御褒美が頂けるような道を目指している方が多いように思えてならないのです。

そもそも徳は目に見えませんので、無意識のうちにでも、そこを目指すという事は「目に見える徳」を求めているのと同じ事なのです。



では次に「目に見えない徳」について考えていきたいと思います。目に見えない徳を頂くとは、「神様の理(おさしづの理)」を心に治めて頂く事だと思います。心(魂)と言うものは、この世の中で唯一「我が理」としてお許し頂いているものであり、末代まで生き通しのものであります。
目に見える徳であるお金や地位は、来世にもっていく事は出来ませんが、心に治まった神様の理は、生涯末代、心に持って通らせて頂く事が出来るのです。(同様に埃の心と悪因縁も掃除しない限り魂にこびりついたままなのです)今世で魂に徳を積み、その器に神様の理を治めさせて頂けば、その治めた理は失う事のない生涯末代の宝になるのです。

それで何が変わるんだと思われる方もいらっしゃるのかも知れませんが、人間の魂は末代まで生き通しでありますので、長い長い目で見れば、とてつもなく大きく変わっていきます。神様の理を治めて通る人と、我が身思案でお道を通る人とでは、先へ行けば行くほど天と地ほどの差がついてしまいます。

人間は、どんな人でも自分の持つ価値観や世界観の中で生きているのです。世の中には「神様はいない」と思って生きている無神論者や、人生は一度きりだから楽しまなきゃ損だと思っている方が大勢います。例え事実とは違っても、
その人達にはそういう世界にしか見えないので、自身のそうした世界観の中で生きているので、今だけの事を考えながら人生を楽しんでいるのでしょう。

めへ/\にいまさいよくばよき事と をもふ心ハみなちがうでな(おふでさき3ー33)

人間は、そうした自分の価値観や世界観を持って一日を通して様々な心を使いながら生きているのです。お道の中でもそうでしょう。自分が助かる為のお道だとしか思えなければ、自分や家族の為に教会、布教所に足を運んで、「徳を積もう、徳を積もう」と頑張って通るのです。世界の為のお道だと承知が出来れば、その為に自分の都合を捨てて、神様の御言葉に従って通るのです。教祖は「心の使い方によって徳にもなれば埃にもなるで」とお話し下さいました。日々に使う心は、徳にもなれば埃にもなります。また、
陽気暮らしの世界につながる大切な種にもなれば、世界を破滅に向かわせてしまう恐ろしい種にもなってしまうのです。更に言えば、お道の者が日々使う心が我身思案で濁っておれば、鏡屋敷であるぢばも曇ってしまい、神様の理が世界には映らず、どれだけ年限が経っても世界が建て替わる事がありません。人々の心が建て替わらなければ、人間は欲望の赴くままに破滅の方向へ突き進むのみなのです。(教祖は「狂うた話した分にゃ、世界で過ちが出来るで」と御忠告下さいました。狂った話を聞いた人は、「お道とはそういうものか」と間違ったまま受け取って通ってしまいます。皆が皆、神の道を間違った認識で通ってしまえば、それが世界に映ってしまい世界で過ちが出来てしまうのです。だからこそお道のお話は狂わしてはなりませんし、お話をさせて頂く方も、聞いてもらいたいが為に人間の都合の良いような、ニンジンをぶら下げたようなお話をしてはいけません。例え聞いてもらえなくても、神様のおさしづ通りのお話をしなければ、世界を狂わす元を作ってしまう結果になってしまいます。また、信仰は一名一人でありますので、信仰心のある方は人の話を頼りに通るのではなく、直々の神様の御言葉から神様の道の通り方を求めていかなくてはならないのです。そういう用木が増えて来なければお道は変わっていかないのです。)

なので「目に見えない徳」である神様の理を心に治めるという事が先々の運命の重大な別れ道になるのです。


ここで、少しだけ話がそれてしまい大変恐縮なのですが、よく教理の勉強をしておりますと「知識だけでは助からん」「知識の信仰ではいけない」「頭でっかちの信仰になる」と言われる事がありますので
「知識だけの信仰」と「神様の理が心に治まった信仰」の明確な違いをお話ししたいと思います。

私が布教所で住み込みをして、青年会をさせて頂いていた頃の話です。私は120年祭の年に「かしもの、かりものの教理」が人間にとって、本当に大切な事だという事に気が付かせて頂いたのです。その時に初めて、心の底から「神様の為に何かさせて頂かなくては申し訳がない」と思えたのです。(中々実践は難しいですが・・)
かしものかりものの教理の重大さに気が付かせて頂いた私は、青年会や少年会で度々そうしたお話をさせて頂いておりました。そんなある日、ある青年会の人に
「かしもの、かりもののお話しは、理屈はわかるんだけど有難いと思えないんだよね」と言われたのです。これが「知識だけ」と「心に治まった」の違いなのだと思います。知識だけとは、知っているだけなのです。人間にとって重大な事だと承知が出来ないから、知っていてもその次に起こす行動に繋がらないのです。
他にも例えるなら、この信仰は「世界救けの道」である事は、お道の者であるなら誰でも知っている事でありますが、知っているだけなのです。それが世界にとっても、自分にとっても重大な事なのだと思えなければ、他人事のように日々を通る事しか出来ず、その為の行動には移せないのです。

こんな事を書いてしまうと、「えらそうな事を言って、心に治まれば実践もたやすく出来るでしょ?実践が伴わないなら心に治まったと言えないよ」と思われてしまいそうですが、100パーセントの実践は簡単に出来るはずはありません。心に治まったとしても、因縁や埃は払い切れてはおりませんから、させて頂こうと思っても、因縁や埃が邪魔をしてしまう事が多いのです。だからこそ、信仰は自分との闘いであり、自分自身が神様の理を見つめて進む一名一人の道なのです。

この信仰は「だんだんの道」と教えて頂いております。まず神様の直々のお話(おさしづ、おふでさき)を聞かせて頂く事が信仰の始まりであります。それは神様の本当の想いを求める真実の心がなければ出来ない事であり、本来はそうした心を信仰心と呼ぶのだと思います。助かりたい、結構になりたい、幸せになりたいからお道を通るという心は、神様に対する信仰心とは言えません。幸せになりたいという心は人間であるなら誰もが持っている心なのです。我が身の都合を第一には考えるのではなく
(我が身の都合を第一に考えて通る心は埃や悪因縁を積む元であります、自分の都合は捨ててしまい、神様の御都合に合わせて通らせて頂こうとする心が信仰心であると思います。そうした信仰心からおさしづ、おふでさきを拝読させて頂き、分かっても分からなくても、出来ても出来なくても「神様のお言葉ならどんな結果になろうとも・・」と損得抜きにして、心において通らせて頂くのです。そうした心を神様がお受け取り下さり、胸の掃除の道(艱難苦労の道)をお連れ通り下さって、心の埃や悪因縁を払って下さるのだと思います。そうして段々と心を綺麗にして頂いた分だけ神様の理が心に治まり、治まってこれば「大事な事だったのだ」と承知が出来、大事な事だと承知が出来たからこそ、毎日おさしづの理を心において通らせて頂く事が出来るようになって来るのです。それでも自分自身の魂にこびりついている因縁や埃が邪魔をしてしまい、出来ない日もあれば、面倒に感じてしまう事もあります。その中を自分に負けないよう、出来ても出来なくても、成っても成らなくても、誰に反対されてもという心で、おさしづの理を心の中心において通らせて頂いておれば、誠にもったいなくも、親神様が足らない所は足して下さいます。神様の誠に有り難いお働きによって、年限と共におさしづでお示し頂いているお言葉が、自身のお道に対する考えや価値観になっているのです。それが神様の理が心に治まるという事なのだと思います。そうして、神様の価値観に近づかせて頂く事が出来れば、その価値観を持って一日を通れるようになるのです。神様の思し召しに適った心を使い、世界救けの為の一日が通らせて頂けるようになるのだと思います。そうした用木が増えて来たら世界救けの道が一段と進む事になるのだと思います。

初代様が「人間心を打ち忘れ神の心に成りて来い」とよく教えて下さったそうです。お道の者は、世界救けの為に神一条の精神を定め、貫き、神様に胸の掃除の道をお連れ通り頂いて、神様の理を心に治めさせて頂いて、神様と同じ価値観に近づいていかなければならないのです。いつまでも「何となく知っているだけ」ではいけませんし、神様の御言葉を「知ろうとしない」「興味がない」では、そもそも話になりません。
「知っている」が「大事な事」に変わっていき、それが自分の価値観になっている事が「心に治まる」という事なのです。(もっとお道が進めば、違う景色が見えてくるのかも知れませんが・・・)

だんだんの道なのですから、一足飛びに治まるものではありませんし、そもそも神様の理を自ら求めようとしない人に治まる理は一つもありません。

きゝたくバたつねくるならゆてきかそ よろづいさいのもとのいんねん(1-6)

こんな事を書いてしまうのは本当に失礼な事だと思うのですが、おさしづを通して神様の理(神様の本当の思惑)を知ろうとしていない人は、信仰の入り口にも立てておりません。まず神様の御言葉を知る事が信仰の入り口に立つ事であり、勇気をもって一歩でも前に進む事が信仰の始まりなのです。何も分からなくても、出来ても出来なくても、少しずつでも神様のおさしづを拝読させて頂いて、出来る処から実践をさせて頂く事が信仰の歩みなのです。そうして、分からない中、難しい中でも神様のお言葉だけを頼りに、神一条の精神をもって進んでいくのです。「闇夜のカラス、声を頼りについて来い。夜が明ければ成程の道」と教えて頂いておりました。神様のおさしづを一筋に通らせて頂いておれば、その時は分からなくても、迷う事や苦しい事があっても、必ず「成程」と思える日が来るのです。(一言お断りをしておきますが、理の親の言葉に従って、理の親を立てて通るという信仰を心掛けながら、信仰の知識を身につける為におさしづ、おふでさきの拝読をしても神様のお受け取りはありません。神様がお受け取り下さらない以上、胸の掃除の道をお連れ通り頂く事も出来ませんので、そうした心を持ちながら神様のおさしづを拝読されても神様の理が心に治まる日は来ません。
神様はそれぞれの心根を見抜き見通しであります。おさしづで「赤きは赤き、黒きは黒きに連れられ・・」とお示し下さっております。そもそも人間を頼りに通ろうと思っている時点で、その心通り人間の親にお連れ通り頂いているのですから、その親を飛び越えて神様の御話しを知識として身につけようとしたり、お話の種にする為の勉強としておさしづ、おふでさきを拝読しても、それでは心と行いが一致しておりません。ましてやそうして知識として覚えた神様の理を使い、お連れ通り下さっている理の親の批判をするなど筋違いも甚だしく、それでは神様から「違うよ」と教えられても仕方がありません。神様の理だけを頼りに、精神的に神様を信じ切る心でおさしづに向き合って信仰をさせて頂かなければ、神様にお連れ通り頂く事は出来ないのです。)

神様の思し召しに従って通らせて頂きたいという心が少しでもあるなら、おさしづを拝読させて頂いて、おさしづに従って通らせて頂かなくてはいけません。そして「これは難しい、自分にはとても実践出来ない」と諦めない事がとても大切です。最初から完璧に出来る人間なんていませんし、そんな簡単に出来る事なら誰も苦労をしません。そもそも人間には、富士山のように積もり重なった埃や因縁が、びっしりと
魂にこびりついているのです(少し言い方を変えると、自分の考えや価値観、我が身思案で凝り固まっているのです)。なので少し拝読させて頂いたからと言って、簡単に承知が出来る筈もなく、ましてや100パーセントの実践など出来る訳がありません。神一条の精神を持って、「出来ても出来なくても、これが大事なのだ」という心を持ち続けていれば、年限の理によって神様がだんだんと邪魔になっている因縁を払って下さいます。おさしづの理を心に持ち運ぶ道すがらで、人から反対されたり、馬鹿にされたりするのも、自分の気分気癖と戦っている最中も、言わば神様が胸の掃除の道をお連れ通り下さっている最中なのだと思います。「出来ないからやめた」と諦めて神様から離れてしまってはどうしようもありません。

これからハながいどふちふ(道中)みちすがら といてきかするとくとしやんを

このさきハうちをおさめるもよふだて 神のほふにハ心せきこむ

だん/\と神のゆふ事きいてくれ あしきのことハさらにゆハんで

このこ共二ねん三ねんしこもふと ゆうていれども神のてはなれ

しやんせよをやがいかほどをもふても 神のてばなれこれハかなハん

このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんで

(おふでさき1ー57~62)

この信仰はだんだんの道であります。一段一段上がっていかねばなりません。信仰の年限と共に、神様と同じ価値観に近づいていかねばなりません。これは、このお道に引き寄せられた全員に漏れなく該当する話なのです。決して他人事ではありません。教祖は「心が変わらねばその信仰は嘘やで」とお話し下さっておりました。

おふでさきには

いまゝでハせかいぢうハ一れつに めゑ/\しやんをしてわいれども

なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので

これからハ月日たのみや一れつは 心しいかりいれかゑてくれ

この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを
(12 89~92)

とお示し頂いております。

私達お道の者は、我が身思案の信仰から、世界救けの為の信仰へと心が変わっていくのが本当なのだと思います。こうした神様の思し召しが、お道を通らせて頂く上で何よりも重大な事なのだと気が付く事が、心が変わって来たと言う事であり、価値観が少しずつ神様に近づかせて頂いた証拠なのだと思います。そうして段々と心に治まった神様の理が「目に見えない徳」であり、末代の宝なのだと思います。

「目に見える徳」と「目に見えない徳」。どちらを求めて信仰をさせて頂くかは、それぞれの心次第でありますが、後で後悔しないように、どちらを求めて通るのが一番良いのかは、お互い様にしっかりと思案をさせて頂かなくてはなりません。

目に見える徳を頂く事は、人間にとってはうれしい事でしょう。お金だって、名誉だって、地位だって、あればあるほど人間は幸せに感じるかも知れません。しかし、その幸せは本当の幸せではありません。現代の大半の人間は欲を満たす事で喜びを得よう、心を満たそうと考えておりますが、それは大きな間違いであります。
人間は喜び方を間違えてしまっているのです。欲望を満たせば満たすほど身を滅ぼしていく事になってしまうのです。欲望を満たす事で得る喜びには際限がありません。

よくにきりないどろみづや こころすみきれごくらくや(10下りー4)

欲に切りはありません。教祖は「欲から離れなさいよ」とお話し下さいました。欲を満たす喜びを求めて、神様に徳という器に財産や地位や名誉を沢山入れて頂いても、欲の埃や高慢の埃が積まれていく一方なのです。お金持ちで贅沢をしている人間は、高級な物でしか満足が出来なくなってしまいます。それだけ心が貧しくなっているのでしょう。
教祖は明日食べるお米が事欠く中で、「世界には食べ物を山ほど積んでも食べるに食べられず、水も喉を通らんと言うて苦しんでいる人もある。その事を思えばわしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とお話し下さいました。
教祖は、欲から離れ心が澄み切れば、生かされている事自体に幸せを感じ、親神様の多大なる御恩恵に感謝して、満ち溢れる喜びの中で通らせて頂ける事をお示し下さったのです。幸せと言うのは、得るものではなく、感じるものなのでしょう。
幸せを得るために、お金や物で贅沢をしてしまえば、欲の埃が更に積もり重なるばかりなのですから、どんなに恵まれても心から満たされる事はありません。それでも心を満たす為に、更に贅沢を積み重ね、埃の心を積み続けるのでしょう。
まさに「欲にきりない泥水」なのです。反対に、欲から離れ心が澄み切って行く事が極楽への道なのだと教えて頂いているのです。

もっと思案を重ねるなら、我が身が楽しむ為に徳を使ってしまえば、
魂の徳も減る一方です。初代様は「人間として生まれるには徳が必要なんだよ」と教えて下さいました。魂に天のお与えを入れる徳(器)がなくなって来てしまえば、人間として通れる力をだんだんと失っていきます。更に、恩に恩が重なれば「牛馬の道」へと落ちていく事になってしまいます。

それに目に見える徳は、出直して生まれ変わった時にもって行く事も出来ません。棺桶にいっぱいの札束を入れても、ブランド物を沢山着込んでも、次に生まれて来る時は、徳のない
貧相になってしまった心一つだけを持って生まれてくるのです。お道を知らない人ならいざ知らず、「かしものかりものの理」を教えて頂いている私達お道の信者は、人間にとって一番価値のあるものは何か、大切なものは何かを見誤ってはならないと思います。

現代社会は完全にお金に支配されております。皆がお金の力を信じております。
お金があれば大丈夫、お金があれば幸せになれると思い、お金を手に入れる為に身体を売り、お金の為なら人に迷惑をかけても、苦しめても平気な顔をしている者もいます。

お道を通る者の中にも、神様の理をお金で得ようとする者さえいます。「何万円で助けてやる」と平気で人に話す者もいるそうですね。お金のお供えをして神様のお働きを頂こうと思って通っている人も結構います。そういう人々は、自分でも気が付かないうちに、神様よりもお金の力を信じてしまっているのです。

そもそもお金とは何でしょうか。お金は、人間にとって必要不可欠な衣食住を手に入れる為の取引に使う為に作られた道具にすぎません。一万円と言っても、その価値は変わっていくのです。ただ、一万円札に一万円程度の価値が保証されているだけの紙切れなのです。現在はこの一万円があればそれなりの物が手に入ります。しかし、何かの事でこの一万円の価値が下がって来てしまえば、一万円札一枚ではあまり物が手に入らなくなってしまいます。お金の価値が下がれば、今の一万円札がただの紙切れ同様になってしまう事だって十分にあり得るのです。人間が便利で使っているだけの物をいくら神様にお供えしたところで神様のお受け取りはありません。

「金銭の心は受け取りはない。心だけ金銭、何程の金を持って来て、今日からと言うても受け取るものやない」
明治23年6月17日

「神一条は金銭ではいかん・・・金銭で出来る理ではあろうまい。神一条は金銭で出来まい」明治22年8月12日

「どんな事も自由と言うたる。自由というは、何程の金銭積み立てたと言うて成るものやない」明治35年10月7日


親神様は、世界中の人間を救けてあげたいばかりの御心なのだと教えて頂いております。

月日にハせかいぢうゝハみなわが子 たすけたいとの心ばかりで
(おふでさき8-4)

そうした親神様の救け一条の親心のお手伝いをさせて頂くべく、陽気暮らし実現に向けての種を蒔く事が我々お道の信者の仕事なのです。その種というのが、まさに教祖ひながたの道であり「
神様の為に、世界の為に、お道の為に」という心でおさしづの理に従って通らせて頂こうとする神一条の精神なのです。親神様が、我々道の者に対して求めて下さっている真実のお供えは「お道の為、世界の為に少しでも自分の幸せをお供えして不自由をさせて頂こう」とする真実の心なのです。自分の欲の為ではなく、ただ世界の為と言う欲のない真実の心をもって、親神様に尽くし運ばなければ(種を蒔かなければ)、神様が世界を救ける為に働く事が出来ません。

教祖は
「ああもしたい、こうもしたいという心があるやろ。その心を供えるのや」
と教えて下さいました。

そうした心を真実の種として神様がお受け取り下さり、一粒万倍にして世界の為に使って下さるのです。お金がいくら集まってこようとも、
「お供え金」では世界救けの道は作れないのです神様から求められてもいないのに、お金のお供えで事を済まそうとしたり、お金のお供えで神様のお働きを頂こうとするのは(そもそも拝み祈祷の神様ではありませんが・・)、神様ではなくお金の力を信じて、お金の信仰をしているのと同じだと思います。誠におこがましくも神様をお金で動かそうとしているのです。お金は大切なのですが、そこまでの力はないのです。

今の世界はお金中心で回っています。地獄の沙汰も金次第。お金さえもらえれば、平気で人の命や日本を売る者さえいるのです。人間は物を取引するだけの道具に心を奪われ、争い合って、命を奪い合って通っているのです。皆、お金に振り回されているのです。こんな馬鹿げた世界がいつまでも末代続く道理はないのです。

人間は、人間として生きている事が当たり前になってしまっております。しかし、
それは決して当たり前の事ではありません。お道に引き寄せられた方々は十分にご承知の事と思いますが、私達が今この瞬間でも、人間として生きているのが当たり前のような顔をしていられるのは、ひとえに目には見えない親神様が、何一つ不自由のないこの身体を貸し与えて下さり、一分一秒お休みされる事なくお働き下さっているからなのです。

その健康の有難さは、病気になった時に初めて気が付くのです。病によって体が不自由になるほど健康の有難さが身に染みるのです。この健康はお金では買えません。人は健康な体が当たり前だと思っているから、そんな最も大切で重大な事を二の次にしてしまうのです。本来は、この貸し与えて頂いている身体こそ、人間にとって一番大切で何よりも価値のあるものなのです。

にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら(3-41)
にんけんハみな/\神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか(3-126)


神様は、いずれこの世界を甘露台中心の世界にして下さいます。甘露台中心の世界になれば、どんな人でも甘露を頂けば115歳の定命を保ち、更に進めば病まず死なず弱らないようになり、年を取る事もなくなるのです。200,300歳まで生きさせてやりたいとの神様の思し召しなのだそうです。また、心次第ではいつまでもいよとの仰せなのです。そして、人は半日仕事をして、半日遊んで暮らせるようにもなるようです。雨も五日に一回、夜に降るだけになり、傘もいらなくなるという事です。

神様がおぢばに甘露台を据えて下さって、甘露台中心の世界になれば、人間は本来の最も大切で価値のあるものに気が付かざるを得ないでしょう。お道の者は、こうしたこの世を治める世界救けの道を作る為の道具として、世界に先立って神様の道に引き寄せられているのです。

おさしづでは
「目の前の楽しみ、その楽しみは短い。先の楽しみ、細い道のようなれども、先の長い楽しみ。後でみれば短い。先は長い楽しみの道。よう思やんして、真実の楽しみ。あちらで抑え、こちらで抑え、通りにくい道も通る」(明治20年7月14日)
とお示し下さっております。

真の楽しみは、甘露台中心の世界になり、世界一列の心が澄み切り、喜びと感謝に満ち溢れ、神人共に陽気暮らし世界になり、親神様の御恩恵を十分に頂きながら、末代まで末永く陽気に幸せに暮らせる世界になった時に初めて訪れるものであります。その時こそが、おさしづでお示し頂いている「先は長い楽しみの道。よう思やんして真実の楽しみ」という事なのだと思います。今はその陽気暮らし世界建設の為に、神様の御言葉に従い、不自由の道を嬉しい心で通らせて頂く種まきの時旬なのです。


おさしづで
「どんな艱難もせにゃならん、苦労もせにゃならん。
苦労は楽しみの種、楽しみは苦労の種、と皆聞いて居るやろう」(明治39年12月6日)
ともお示し下さっております。


こうした種まきの時旬は、いつまでも続くわけではありません。いつか必ず神様の一列御支配による世界救けの本道が始まる日が来ます(おそらくそんなに遠い話ではないと思います)。その本道が始まった時、お道の者は、現在の仮の道(種まきの時旬)で通らせて頂いて治まった心が、末代の理に定まってしまうと言う事はしっかりと承知して置かねばなりません。末代の理に定まってしまえば、もう通り返しは出来ません。この重大な世界救けの種まきの時旬で、お道で積ませて頂いた徳を使って我が身が楽しんで贅沢して通ってしまえば、
末代徳のない、貧しい心のまま通る事になってしまうのです。後悔しても仕切れない結果になってしまうのです。この種まきの時旬で徳を使って自分が楽しんで通っておれば、先々で楽しむ種はなくなってしまいます。今の目の前の楽しみは短いのです。お道の者は、今は楽しむ時期ではないのです。

現在の仮の道(世界救けの種まきの時旬)で、我が身が楽しむ為の「目に見える徳」を求める信仰をするのか、世界救けの為の「目に見えない徳」を求めて信仰をするのか。この違いは大変大きいのです。それこそ天国に行くか、地獄に行くかというくらいの別れ道になると言っても過言ではないのです。


現在のお道で恵まれている事が徳のある姿だと考え違いをしてしまい、必要以上に贅沢な暮らしをしている人や、自分の幸せの為、神様から御褒美を頂きたいと願い、見返りを求めるような信仰をしている人は、一刻も早く神様にお詫びを申し上げて、心を入れ替えなければ、後悔しても仕切れない道を末代通る事に成ってしまいます。


しかし、おふでさきには
月日にはどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで

いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ

しんじつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる

月日にはせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ

とお示し下さっております。今ならまだ十分間に合うと思います。神様を思う心があるなら、今一度自分の胸に手を当てて、今の通り方で良かったか、本当に神様の思し召しに添って通らせて頂いているか、お互い様にしっかりと思案させて頂かなくてはならないと思います。

神様はおさしづで

「世界から神の理を見て鏡屋敷と言うのや。鏡というは何処から何処まで分かるが鏡屋敷。聞かにゃ分からん事ではどうもならん。もうこれ年限に徳を付けてある。心だけ皆それ/\授けてある。めん/\徳が付けてある。その徳だけをめん/\よう働かさん。第一どうもならん。鏡曇らしてはどんならん。鏡やしきに曇りありては救ける事は出けん。しんが濁れば傍が皆濁る。濁せ/\、濁してはどんならん。それ/\の処より濁す者ありてはどんならん」
(明治22年7月31日)

とお示し下さっております。


神様は「年限に徳を付けてある、その徳だけめん/\よう働かさん」とお示し下さっております。神様が私達道の者に対して、年限に徳を付けて下さっているのは、お道の為であり、世界一列陽気暮らし実現の為なのです。その頂いている徳をどのように使うのかは、それぞれの心次第なのですが、冒頭でお話しした通り、今天理教組織全体が目に見える徳を求め、我が身の幸せを求めて進んでしまっております。芯が濁れば、その傍の者が全て濁ってしまいます。一人一人の心の芯も我が身思案の心で濁ってしまいます。お道の者の心が我が身思案で濁ってしまえば、鏡屋敷であるおぢばも曇ってしまい、その曇りが世上にも映ってしまいます。お道全体がいつまでもこんな方向性で通っていては世界が救かる日は来ません。


教祖140年祭まであと僅かです。
後で後悔のないように、お互い様にしっかりと神様の思惑に添って通らせて頂きましょう。



明治二十三年四月二十日(陰暦三月二日)午前四時
刻限御話
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さあ/\一寸一つ事情尋ね掛ける。初めてさあ/\うちのしんばしらを初めとして、親族一同の者一人々々どういうものや。一つの事情を尋ねに出よ。どういうものや分かろまい。今までというものは、あちらこちら取り混ぜての人間心あるから分かるまい。事情が違うてはどんならん。そこでしんばしらを初めとして、親類一同一人に一人付き添えて、明日の朝より尋ね出よ。さあ明日の朝、夜が明けたら早天に尋ね出よ。
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さあ/\一寸一つ事情尋ね掛ける。

 

(さあ/\一寸やそっとで破滅の淵から抜け出せない人間世界を、末代続く安心安全な神の一列支配の世界に改める為には、どうでも聞き分けて運ばなければならない一つ事情を尋ね掛けるのが道というものであろう。)

 

初めてさあ/\うちのしんばしらを初めとして、親族一同の者一人々々どういうものや。

 

(約束の年限の到来と共に神がこの道を創め掛けてから、さあ/\うちのしんばしらを初めとして皆々の労苦によってここまで来たが、親族一同の者や一人々々の者も、一列平等で互い助け合いの新しい神の世界に改める為の道筋というものがどういうものやら分からなかったであろう。)

 

一つの事情を尋ねに出よ。

 

(末永く世界が治まる為の一つ事情を尋ねに出よと言うのやで。)

 

どういうものや分かろまい。

 

(多くの歴史や現実に裏打ちされた人間の道理や、様々な事実や検証によって確立された科学や学問は素直に聞き分けられても、あらゆる事情が神の定めた天理・天則によって成って来るというこの世の真理を速やかに聞き分けて取り入れる事が出来ない人間にとっては、混沌とした世界を立て直す為の天然自然の順序の理というものがどういうものやら分かろうまい。)

 

今までというものは、あちらこちら取り混ぜての人間心あるから分かるまい。

 

(今までの道というは、あちらこちらの世上の理を取り混ぜての人間心の道であるから、人間が成す道ではなく、神を勇ませるような澄み切った誠真実を定めて出る理によって神が表へ出て働く道であり、勇み出た神の働きによって世界さえ容易に救けられるという一つの理は分かるまい。)

 

事情が違うてはどんならん。

 

(たとえそれだけの道である事が分からなくても、皆々の日々の事情が、速やかに世界一列を救けたいばかりの真実誠の神の思惑と違うてはらどんならんで。)

 

そこでしんばしらを初めとして、親類一同一人に一人付き添えて、明日の朝より尋ね出よ。

 

(そこでしんばしらを初めとして皆々に真実誠の天の道理を伝えて置かなければならないから、親類一同も一人に一人を付き添えて明日の朝より尋ねに出よと言うのや。)

 

さあ明日の朝、夜が明けたら早天に尋ね出よ。

 

(さあ明日の朝、夜が明けたら早天に尋ね出よと言うのやで。)

 

 

 


同日、続いて親類一同伺(梶本、山沢伺)
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さあ/\しんばしら/\、後一つは親族。刻限という、刻限というてはとんと分かり難ない。秘っそ/\にして真の親族、いんねん、しんを定めてこれもこうかい、あれもあゝかい、一つの理が治まりたら何彼の事も治まる。又々話、今日は親族の理というは深きの理、これで親族という。神一条の道は又一つ別派、それより血分け、心の理寄り来る理がある。誠の道に寄り来る。神一条の道から始まりた真実の心という。たんのうの心より治まる。こうすればこう成る。鏡やしき/\と言うてある。不自由さそうと思うてするのやない。一つ/\あたゑという。親族々々、これよう聞き分け。前の親族いんねんの理、一つ心治め。こゝ一つの心の置き所、一つ/\に力添え、それからそれへは日々に受け取る。三年四年後なる道は通り難くい道であったであろう。通りたる道は道理上、道は一つに寄せてある。教会は多分にある。遠くから始まりた道である。今一時のさしづはよう聞き分けねば分からん。真実の道はなか/\の道であろうまい。連れ帰る道、心の理を以て理を出さす。心の理が出るのはたんのうの心無いから、早く澄ましたら得や。早く澄ましたら不足は無い。どんな事も寄りて珍し事をして下さる。今の処はすっきりと仮家で、いつ/\の道を諭したる事情、しんの書き取りたる理と合わせ、人間心を持たず、曇り無きより鏡やしきと言う。不自由の者の身上を見て、何彼の事も治め。暫くのふしん、何彼の事も一日の事情を定めてくれるよう。
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さあ/\しんばしら/\、後一つは親族。

 

(さあ/\人々の先に立ち、柱と成って尽くす理をしんばしら/\と言うが、その為に無くてはならない後の一つの理は、しんばしらと一体と成って尽くす理の親族と言うのや。)

 

刻限という、刻限というてはとんと分かり難ない。

 

(濁り切った人間世界を隅々まで洗い切って、何時々々迄も続く互い救け合いの神の世界に改める為の道であるから、その為の天の道理が皆々の胸に治まるべき最善の時旬を見定めて諭す理を刻限というが、刻限というても、普通の話のように思って聞いて居ては神の深意は解け出さず、とんと分かり難ない事に成るのや。)

 

秘っそ/\にして真の親族、いんねん、しんを定めてこれもこうかい、あれもあゝかい、一つの理が治まりたら何彼の事も治まる。

 

(何時も己を秘っそ/\にして神の思惑を身に纏い、神に支えられながら道の為世界の為に尽くしてこそ真の親族であるが、それぞれが生まれ持ったたましい因縁をまっとうする為にも、何より道が大事という芯を定めて、これもこうさせて貰おうかい、あれもあゝさせて貰おうかいと、遠慮気兼ね無く道の為世界の為に尽くす一つの理が治まりたら何彼の事も治まるのやで。)

 

又々話、今日は親族の理というは深きの理、これで親族という。

 

(それだけの事情をしっかり聞き分けて貰いたいから又々同じ話をするが、今日はどうでも諭さなければならない親族の理というは、人間創造以来から、常々に神を慕って付いて来る一途な心を選び抜いてこの日の為に結んで置いた深きの理であるから、その一途な心を世界中に写し出して世界中に同じ心を治めさそうとするのであり、これでこそ親族という事に成るのや。)

 

神一条の道は又一つ別派、それより血分け、心の理寄り来る理がある。

 

(神一条の道は又一つの別派であって、前々から結んで置いた深き理は無くとも、何もかも捨てゝ道の為世界の為に尽くさせて貰おうと定まった固い精神を受け取って神か勇み出る誠の理であるが、その心を世界中に写し出して同じ心を治めさせなければならないから、それより、その筆頭と成る者の血を分けて親子の縁を結び、元のぢばに引き寄せる事によって同じような一途な心の理の寄り来る理があると言うのや。)

 

誠の道に寄り来る。

 

(どのような事も神の思惑に運ぼうとする一途な心を選び抜いて元のぢばに引き寄せる理により、世界中から同じような心の者が誠の道に寄り来ると言うのや。)

 

神一条の道から始まりた真実の心という。

 

(どのような事も神の思惑どおりに治めようとする神一条の道から始まりたなら、世界に写さなければならない真実誠の心と言うのやで。)

 

たんのうの心より治まる。

 

(世界中の人々を寄せて救ける為の順序の理は、どんな事も思うように成らん苦しみの道に堪えて満足たんのう尽くす誠の心より治まるのやで。)

 

こうすればこう成る。

 

(どのような難しい中も、こうすればこう成ると絶対的なさしづの理に説いてあるであろう。)

 

鏡やしき/\と言うてある。

 

(神の話を一日でも早く聞き分けて運ぶなら親の理が治まり、治まった親の理を働かせて世界に写し出し、世界中に同じ道を通す為の鏡やしき/\と言うてあるであろう。)

 

不自由さそうと思うてするのやない。

 

(どのような難儀な道も、広くて大きな世界救けの道を拵える為の台とするであって、ただ単に不自由さそうと思うてするのやないで。)

 

一つ/\あたゑという。

 

(そうして尽くした誠の心に、末代失う事の無い不思議な天の力を授けようとするのであるが、それを一つ/\の天のあたゑというのや。)

 

親族々々、これよう聞き分け。

 

(人々の先に立ち、絶えがたい苦労艱難の中から道の為・世界の為に尽くす理の親族々々と言い、それによって世界が救けられるというのだが、これをよう聞き分けねばならんで。)

 

前の親族いんねんの理、一つ心治め。

 

(前々からの一途な心を選び抜いて、これから創まる世界救けの道の為に結んで置いた深き理が親族いんねんの理であるから、どのような事も無条件で神に従おうとする一つ心を治めるのやで。)

 

こゝ一つの心の置き所、一つ/\に力添え、それからそれへは日々に受け取る。

 

(こゝの処は、速やかに神の話を聞き分けて道の為世界の為に尽くそうとする一つの心の置き所であって、それを世界に写し出して同じ心を治めさそうとする為に、その一つ/\に力添えをする神屋敷・鏡屋敷であるから、それからそれへと尽くす誠の理は日々に受け取るのやで。)

 

三年四年後なる道は通り難くい道であったであろう。

 

(道に尽くした誠真実は大きく受け取るなれど、それから先の三年四年後なる道は、尽くした理を一粒万倍にして返してやろうとする修理肥やしの理が働くから、通り難くい道であったであろう。)

 

通りたる道は道理上、道は一つに寄せてある。

 

(どんな難儀な中も、通りたる道は皆道理上世界に写さなければならないのやから、そうして尽くす誠の道は皆一つに寄せてあるのや。)

 

教会は多分にある。

 

(同じような心を一つに寄せる為の教会は、それぞれの心どおりに分けなければならないから多分にあるのやで)

 

遠くから始まりた道である。

 

(己に屈する事無く、道の為世界の為に尽くそうとする誠の精神を受け取って、もっと強く大きく育て、それを世界に写し出して同じ心を治めさそうとする天の道であるから、今一時のそれぞれの思いからは、遠く離れた苦労艱難の中から始まりた道であるのや。)

 

今一時のさしづはよう聞き分けねば分からん。

 

(今の一時のさしづの理は、素直に神の話を聞き分けて尽くそうとする誠の心に、それを実現する為の天の力を授けようとするものであるという真理を、よう聞き分けねば分からんで。)

 

真実の道はなか/\の道であろうまい。

 

(真実誠の神の道は、道の為世界の為に尽くそうとする誠の心を受け取って心通りに連れて通す心の道であるから、自分にはどうやっても通れないというような、なか/\の道ではあろうまい。)

 

連れ帰る道、心の理を以て理を出さす。

 

(先々に定まる誠の心を見定めて道の為世界救けの為に連れ帰る道であるから、定まった誠の心の理を以て世界導く道の台とする為に、より一層澄み切った心の理を出さすのやで。)

 

心の理が出るのはたんのうの心無いから、早く澄ましたら得や。

 

(それだけの道である事が分からず、不足な心の理が出るのは、思うように成らん道の中のたんのうの心が無いからであるが、そこを切り開いて結構な先々の理を治める為にも、濁り心の掃除の為。真実誠の種蒔きの為のひながたの道を一日も早く運んで心を澄ましたら得やで。)

 

早く澄ましたら不足は無い。

 

(一日でも早く心を澄ましたら親の理が治まり、治まった親の理が道の為世界救けの為に働くから、不足という理は何処にも無いという事に成るのやで。)

 

どんな事も寄りて珍し事をして下さる。

 

(たとえ一日でも早く心を澄ましたら、どんな事も治まるよう、神がそばへ寄りて珍しい事をして下さるという道やで。)

 

今の処はすっきりと仮家で、いつ/\の道を諭したる事情、しんの書き取りたる理と合わせ、人間心を持たず、曇り無きより鏡やしきと言う。

 

(今の処は広くて大きな世界救けの道を拵える為の仮の道であるから、すっきりと不自由第一の仮家の理で治めるなら十分だと、いつ/\の道を諭したる事情と、真の誠を書き取りたるさしづの理と合わせて運び、どのような中も人間心を持たず、曇り無き澄み切った心を世界中に写し出して、同じ心を治めさす理により鏡やしきと言うのやで。)

 

不自由の者の身上を見て、何彼の事も治め。

 

(道の為に尽くそうと思っても、思うように働く事も出来ない不自由の者の身上を見て、この身一つが有れば結構やと何彼の事も治めるのやで。)

 

暫くのふしん、何彼の事も一日の事情を定めてくれるよう。

 

(皆々で結構な末代の理を治める為に、暫くの間の難儀不自由を尽くす心のふしんであるから、何彼の事も人に写して心の向きを変える事が出来るよう、一日も早く、一人先に立って道の為世界の為に尽くそうとする真実誠の一日の事情を定めてくれるようと言うのやで。)




・・・・・・・・・


この度掲載させて頂いたおさしづの解釈は、しんばしらと一体となって働く「親族の理」についてのお話でありました。正直に言ってしまえば、わかるようなわからないような、まだ自分には心に治める事の出来ない深い理であるのかも知れませんが、わからないからこそ勉強をして、神様の思惑を求め、神様、教祖に教えて頂かなければなりませんので、あえてこのおさしづについて記事を書かせて頂こうと思った次第なのです。

自分にはまだ悟る力はなくとも、お道にとっては極めて重大な理なのですから、神様がお言葉としてお示し下さったのです。「わからないからいいや」では進歩はありませんし、世界の為には、この理を心に治めて通らせて頂かなくてはなりません。わからなくても、神様の思惑を求めていく心に親神様、教祖がお働き下さり、胸の内から教えて頂ける事を楽しみにしながら、この記事を書き進めて行きたいと思います。

親神様が教えて下さっている親族とは、人間創造以来から、常々に神を慕って付いて来る一途な心を選び抜いて、この日の為に結んで置いた深きの理であり、
ひっそりと神の理を身に纏い、神様に守られながら世界の為に心を尽くし、己に屈する事なくさしづの理を持ち運び、人々の先に立ち、絶えがたい苦労艱難の中から道の為・世界の為に尽くし、しんばしらと一体となり、この道を支える為に働く者を理の親族として教えて頂いております。


また、解釈文の中で

「神一条の道は又一つの別派であって、前々から結んで置いた深き理は無くとも、何もかも捨てゝ道の為世界の為に尽くさせて貰おうと定まった固い精神を受け取って神か勇み出る誠の理であるが、その心を世界中に写し出して同じ心を治めさせなければならないから、それより、その筆頭と成る者の血を分けて親子の縁を結び、元のぢばに引き寄せる事によって同じような一途な心の理の寄り来る理があると言うのやで」
とも教えて頂いております。



いづれにしても、私達神様の道に引き寄せて頂いた者は、世界救けの道の為に心を尽くす使命があります。その使命を果たそうとするか、他人事で済ませるかは、神様のお話を聞かせて頂いているそれぞれの心次第であります。そして、それぞれの心通りに道を与えて下さるのが親神様であるのだと思います。


この世界救けの道は、神様を信じ切る神一条の精神から始まる神の道でありますが、解釈にも出てきたように、多くの歴史や現実に裏打ちされた人間の道理や
科学的に裏付けされた学問の話なら、なんとなく説得力も感じて信じる事が出来ますが、こうした目には見えない先々の世界を救けようとされる親神様のお話やお働きは、中々信じ切る事が出来ないという人が、まだまだ大勢いらっしゃるのではないかと思います。

「にんけんの心とゆうハあざのふて みへたる事をばかりゆうなり」(3ー115)

「めへにめん(目に見えん)神のゆう事なす事わ なにをするとも一寸にしれまい」(3-25)


しかしながら、よくよく考えてみれば、この宇宙や地球、また、人間も含む、生きとし生けるものが持つ魂と言うものは、科学が作り出したものではありません。そもそも科学とは、自然現象の法則や働きを、実験や検証を積み重ねてわかりやすいように記号化したり、可視化したようなものであります。この世界の全ては、親神様の思惑により、親神様の天然自然のお働きを持って創られたものであります。決して人間が科学の力で作り上げて来た世界ではないのです。人間は大自然の資源や、現象、法則などを使わせて頂いて文明を発展させて来たに過ぎません。言わば、大自然の上で科学が成り立っているのですから、「非科学的な事は信じない」という主張は理屈に合わないのです。

このお道は、こうした人間世界を紋型ないところから御創り下さり、今なおこの世界で人間が何不自由なく暮らせるよう、一分一秒休まれる事なくお働き下さっている親神様がお付け下さっている世界救けの為の神の道であります。

「このみちハどふゆう事にをもうかな このよをさめるしんぢつのみち」(6-4)

この世をお始め下さった親である親神様でしか、この破滅に追い込まれた人間世界を救う事は出来ません。しかし、この世界は「かしもの、かりもの」の世界であり、神様は人間の心通りの守護(人間が使う心の結末的な御守護)をするとお約束下さっている世界でありますので、人間の方が心の切り替えをして、親神様の御心に沿って通っていかなければ、世界が救かる日は永久に来ないのです。どんな事も種を蒔かずには成って来ないのであり、逆に言えば、種を蒔いて来たから現在の世界の状況になっているのです。

(私達人間は、我が身可愛いという心から様々な種を蒔き続け、知らず知らずの内に、なんの悪気もなく、心の埃や因縁を積み続けているのです。誰もが皆、我が身の都合を第一に考える心が大なり小なりあるものです。また、何かにつけて人と比べ、少しでも人より良いものを身に着けたい、良い暮らしがしたいと思う人もいれば、そこまで露骨に思わなくても、なんとなく人と比べ、人より勝る部分を見つけて安心をして、劣る部分があればうらやんでいるのが、現在の人間の心なのかも知れません。又、我が身を守る為に、力ある人間には媚びを売り、従わざるを得ないという弱肉強食の世界でもあります。(こうした心は、親神様のお話を聞かせて頂いているお道の中にさえ蔓延ってしまっている大変厄介な問題なのです)
この世界は人間の理想通りにはなりません。その心の奥底に潜む、知らず知らずのうちに、何の悪気もなく使ってしまう心通りに治まっていく世界なのです。いくら世界平和を望んでいても、やはり人間同士、心の奥底で競い合いや、強い者に媚び従う追従の心を使っておれば(顔には出さずともです)、その心通り、弱肉強食を基本とした資本主義(競争社会)や共産主義国家(独裁体制)になってしまうのだと思います。これは全て人間の心一つで作り上げられてきてしまった制度、ルールなのです。)

「大道(どんな事も自由に通れる世界の道)で怪我はしなよしなよと諭したる。細い道(神様のおさしづの理に従って通る道)は怪我はせん。皆んな仲良くが神の道、妬み合いは世界にも数は無い、ない・・・一つの物は分け合うて、分け合うて、又そちらへもこちらへも分け合うて、楽しんで通るが一つの理の台、理の台。よう聞き分け」(おさしづ 明治29年5月20日)

財産を人より多く抱え込み満足したり、人の上に立ち、権力や影響力を持つ事が人生の成功だと勘違いをしているのが、現代社会の大まかな価値観ではありますが、親神様がおさしづでお示し下さっているお言葉を拝読させて頂けば、それが間違いである事には、すぐに気が付けるはずです。更に思案を重ねるなら、親神様は「世界ろくぢ(高低ない平等な世界)に踏み均すで」と仰せになったのですから、少なくともお道を通ろうとする者は「人の上に立つ事」や「人より多く財産を手に入れる事が人生の成功だ」「お道をしっかり通って徳を積んだ証拠だ」という考えがあるのであれば、それは根底から見直さなければなりません。お道を通る目標が、親神様がお示し下さっている最終目標から外れていては話にならないのです。

今回掲載させて頂いたおさしづの解釈文の中でも

事情が違うてはどんならん。

 

(たとえそれだけの道である事が分からなくても、皆々の日々の事情が、速やかに世界一列を救けたいばかりの真実誠の神の思惑と違うてはらどんならんで。)


と教えて頂いております。

私達道の者はもちろんの事、世界一列の人間が神様のおさしづ通りに心を治め、皆が心の底から他人を思い、「我が身よりも他人の喜び」を優先し、一つの物を皆で分け合うような優しい心に成れば、その心通り一列ろくぢの(高低のない平等な)真の助け合いの世界に治まってくるのだと思います。どんな事も種を蒔かずしては成って来ないのです。

・・・・なれど皆々そういう心の者ばかりではないが、余儀なく世界順序の情に流れ/\てしまうから、どうもならん。誰にでも分かる仮名な理で諭し置こう。何ぼ広く田地田畑あればとて、蒔かん種は生えん。種無しに作れるか。種蒔かずに取れようまい。隅から隅まで蒔き下ろす。蒔き下ろすで実がのる。一粒万倍に返やす。この理聞き分け。時々だん/\世界も淋むしかろう、道淋むしかろう。一つ心を定め。心一つ道早くに頼む。急ぎおく(おさしづ 明治36年5月20日)

なので、この世界を陽気暮らしの世界に建て替える為には、どうしても人間は心の切り替えが必須なのですが、それが極めて難しく神様にもどうにもならない所なのです。なぜかと言えば、人間の心だけは我の理としてお許し頂いているからなのです。そして、全ての人間は神様にとって、可愛いばかりで、救けてあげたいばかりの我が子なので、神様の定めて下さった天理天則に従えない人間は直ちに排除、と言う事はされません。罰を与えるという事も神様はされません。我が身可愛いの心一つで傍若無人にふるまう人間を、「ちょっとの埃がついただけや」と仰せになり、只々そうした我が子の行く末を案じ、心にこびりついてしまった埃や因縁で苦しむ我が子の姿を見て「何も知らず通る子供が可哀想や、放っておけと言われても放っておけん」として、教祖を通してこのお道をおつけ下さいました。

そして神様は、素直に神様のお話を聞き分け、神様の仰せ通りについてくる一途な魂を見定めて、このお道に引き寄せて神様の話を耳に入れて下さっているのです。しかし、心だけは我が理としてお許し下さっているので、この神の道を通る事でさえ決して無理強いはされません。

「むりにどうせといハんでな そこはめいめいのむねしだい」(みかぐらうた7下りー6)

「来んものに無理に来いとはいわん。来る者に無理に来なという道やない。又無理にどうせいこうせいとは言わん。来る者にどうせいとは言わん。無理に言わいでも仕舞には成りて来る」
(おさしづ 明治30年11月27日)

親神様は、世界救けの道をつけて下さいましたが、無理やりやらせたいのではないのだと思います。親神様を思い、純粋に世界のお役に立てるならという素直な心を求めていらっしゃるのだろうと思います。そうした心根を見定めて、お受け取り下さり、魂にこびりついている因縁や埃を掃除して下さって、世界救けの道具としてお使い頂く為に必要不可欠である神様の理、所謂「親の理」を治めさせて下さるのだと思います。親の理とは、現在認識されているような「私は神様同様だ、自分を立てれば神様がお喜び下さる。逆らうとどうなるか分かりませんよ」などと威張り散らすような低俗なものではありません。「親の理神の理」とおさしづでお示し下さっております。親の理が治まるとは、神様と同じ心、すなわち「世界中の人間の幸せに陽気に暮らす様を見たい、どうでも世界中の人間の心を救ってあげたい」という神様の御心と同じ心が治まる事であると思います。

今回のおさしづでは、一日でも早く人間の運命を落としていく濁り心を掃除して頂いて、親の理を治めさせて頂いて、
神様の為、お道の為、世界の為に働けるようになれたら得なのだと教えて頂いております。

またおさしづで


鏡やしき/\と言うてある。

 

(神の話を一日でも早く聞き分けて運ぶなら親の理が治まり、治まった親の理を働かせて世界に写し出し、世界中に同じ道を通す為の鏡やしき/\と言うてあるであろう。)


ともお示し下さっております。

ぢばは鏡屋敷なのです。神様のお話を素直に聞き分けて、世界の為に神一条の精神で通る者を、時旬が来た時にぢばに引き寄せて、その精神を鏡屋敷の理で世界中の人間(一列兄弟姉妹)の心に映して、同じ道を通らせて、どうにもならない人間の心を救っていくのです。私達お道の者は、神様の世界一列の人間を救けてあげたいという親心を素直に聞き分けて、そのために一手一つに成って働く道具として育てる為に寄せられているのだと思います。神様の為、世界の為に何かさせて頂きたいという心があるなら、神様に繋がる十分な因縁がある証拠だと思います。そうした心は誰でも持っているわけではありません。そうした世界を思う誠の心は親神様、教祖にとっては宝物のようなものでしょう。大切な心なのですから、何かあればすぐに教えて頂けるのです。

にちにちにようほくにてわていりする どこがあしきとさらにをもうな(3-131)

をなじきもたんたんていれするもあり そのまゝこかすきいもあるなり(3-132)

神様を信じて、世界の為に神様の仰せに素直に従う心があれば、その心通りに日々身の内にお入込み下さり、魂を磨き神様の理(親の理)を心に治めさせて下さるのです。神様が日々お手入れ下されば、年限と共に気が付けばこのお道が世界救けの道と承知が出来、少しでも世界救けの為に働かせて頂こうという心が沸いてくるのです。神様のお働きによって親の理(世界一列を救けたいという心)が治まってくるのですが、そうして進められていく世界救けの実現の為には、一人二人では手が足りません。それなりの人数が必要なのだとお示し下さっているのだと思います。

これまでもなんでもよふ木”ほしいから たいていたずねいたるなれども

このたびハたにそこにては一寸したる 木いがたあふりみゑてあるなり

このきいもたんたん月日でいりして つくりあけたらくにのはしらや

それからハにちにち月日みさだめて あとはよう木゛のもよふばかりを

それよりもひねた木からたんたんと ていりひきつけあとのもよふを

にちにちに月日をもわくふかくある をなじところに二ほん三ぼん

この木いもめまつをまつわゆハんでな いかなる木いも月日をもわく

このあといなにのはなしをするならば よう木゛のもよふばかりゆうなり

よふ木゛でも一寸の事でハないからに 五十六十の人かずがほし

このにんもいついつまでもへらんよふ まつだいいつゝききれめなきよふ

こらほどにをもう月日のしんちつを みなの心わなにをふもうや

どのようなくどきはなしをするのもな たすけたいとの一ぢよばかりで

一れつのむねのうちよりしんぢつに はやくわかりた事であるなら

それからハ月日よろずのしはいする なにかよろずのたすけするぞや

このたすけはやくりやくをみせたさに 月日の心せくばかりやで

なにもかもこのせきこみがあるゆへに むねのうちよりそふぢいそぐで

このはなしどこの事やとをもうなよ みなめへめへのうちのはなしや

めへめへのむねのうちよりしいかりと しんちつをだせすぐにみえるで

月日よりこのせきこみがあるゆへに なにか心わいそがしい事
(おふでさき 7ー15~33)

しかしながら、ただ頭数だけ揃っても、心が揃っていなければ意味がありません。せっかく親神様、教祖を思い、
世界を思う心があっても、それぞれがおさしづにはない勝手な道を「世界の為に」と運んでも、神様のお受け取りはなく、神様にお働き頂けなくなってしまうので、結果的にお道の為にはならず、かえってお道の邪魔にさえなってしまいます。

・・勝手というはどうもならん。勝手というは、人間心の道であるから一寸にはよい。なれど、いついつまでも治まらん。何をしたのやなあと言う・・(おさしづ 明治24年5月8日)

なので、おさしづの理に従い、親神様、教祖の手足となって、心を揃えて、一手一つとなり、世界救けの為に尽し働く用木が数多く必要になってくるのだと思います。

現在のお道は、広く大きい世界救けの本道をつける為の「仮の道」だと教えて頂いております。神様のお言葉を軽くしても、何事もなく通れてしまう現在のお道の中を、どういう心で通るのかを見定める為の試しの道であると同時に、神様を信じて通らせて頂いても、なかなか思うようには成って来ない中で、「成っても成らなくても、神様の仰せに従い、世界の為に少しでも働きたい」という更なる真実の心を引き出すための道でもあると教えて頂いていると思います。

一代の処は長いようなもので短い。運んで尽して居る間は長く、そこで一代の処は長いようで短い・・・思うようにならん、これだけ運ぶのにならん、定めているのになあ、と思う。それでも精神定めてすれば、重々の理に受け取る(おさしづ 明治25年7月4日)


そうして、このお道に引き寄せられた者の心の成人と共に、お道全体の姿もまた親神様が教祖を通して御話し下さっていた姿に進んでいくのだろうと思います。第三号のお筆先には、この日本にしんばしらを入れる事と、用木を引き寄せ手入れするという御話が書き記されております。これでこの世の納まりが付くとあります。
しかしながら、「にごり水はやくすまさん事にてわ しんのはしらのいれようがない」と仰せ下さっております。

お道の中の泥水(人間思案)が邪魔をして、未だしんのはしらを入れる順序が頂けないのだと思います。お道の者が一名一任という心を持って、神一条の精神を定め、神様にお連れ通り頂き、胸の掃除をして頂いて、濁り水のような人間思案、人間心がなくなり、お道の中が綺麗に澄んで来た時、親神様のお働きによって、しんのはしらを頂く順序がついて、お道に大きな変化が訪れて、世界救けのこのお道が一段と進んでいくのかも知れません。


これからハ水にたとゑてはなしする すむとにごりでさとりとるなり

しんじつに神の心のせきこみわ しんのはしらをはやくいれたい

このはしらはやくいれよとをもへども にごりの水でところわからん

この水をはやくすまするもよふだて すいのと砂にかけてすませよ

このすいのどこにあるやとをもうなよ むねとくちとがすなとすいのや

このはなしすみやかさとりついたなら そのままいれるしんのはしらを

はしらさいしいかりいれた事ならば このよたしかにをさまりがつく

このはなしさとりばかりであるほどに これさとりたらしよこだめしや
(おふでさき 3ー7~14)


またおさしづには

「この屋敷のしんばしらと成るというのは、生れ出ん先からのいんねんの事情、一つの理」
「成る成らん、しっかりとしんばしら直々の話聞かにゃならんで」
「さあさあ皆の一声千声よりも、しんばしらの一声。しんばしらの一声を用いらん者はあろうまい」


とお示し下さっておりますように、しんばしらという理は、お道にとっては極めて重大な理であります。おそらく、これから見えてくる陽気暮らし実現に進む道を支える為の真の柱という理なのでしょう。
(芯柱・・・芯とは、物事の中心であり、全ての基準となるものであります。これから進められていく陽気暮らし実現にむけた絶対的な基準となる柱(強固な精神で神一条の精神を貫き、この世界救けの神の道と、元始まりの理があるおぢばを支え、万事采配する者)という意味合いが含まれているかも知れません)

教祖は「さあさあ、今なるしんはしらは細い者やで。なれど肉の巻きよで、どんなゑらい者になるやわからんで」と仰せになられました。

私達お道の者は、このしんばしらと一体となり、この神様のお道を支えていけるように心の成人をしていかなければならないのだと思います。それが親神様にとっての理の親族だと教えて下さっているように思います
お道に引き寄せて頂いたお互いが人間を頼らず、親神様の理を見つめ、「一名一任」という心をもち、真実の心で神一条の道を求め、通らせて頂いて、親神様の為に、お道(陽気暮らし実現への道)の為、世界の為、という真実の心を積み重ねる事が出来れば、それぞれが心の成人をさせて頂ける事になり、いつか現われるであろう「しんばしら」と一体となり、この世界救けの道を支える道具として働かせて頂くようになるのだと思います。


「さあさあ、どんな物動かすも、持って歩くも、大勢の力で自由自在、皆心の揃うたが自由自在。こちらが動いても、こちらが動かんというようでは、自由やない・・・中略・・・もうこれだけ道もひろまった、大丈夫と思う。未だ未だ十分やない。一寸の掛かりという事情、これからという心を定めていたら、危なきはない。十分上れば下るより外は無い程に」(おさしづ 明治25年6月18日)

お道は未だ未だこれからなのです。これで十分お道もひろがった、世間に定着したから大丈夫と思えば、あとは下がっていく一方なのです。親神様の思惑、教祖の教えて下さっていた甘露台中心の世界には成っておりません。人は甘露を頂けば115才定命となり、その先は、病まず死なず弱らず、心次第にいつまでもいよとの仰せなのです。まずは甘露台の完成が目標なのでしょう。
その目標の為に、お道の者は神様のお言葉に従って通らせて頂かねばなりません。大勢の心が「世界の為」という誠真実の心で、親神様のおさしづの理を心にもって一手一つとなった時、親神様のお働きを頂いて、どんな物でも動かす事が出来るのだと思います。そして、世界が大きく変わっていき、親神様が教えて下さっていた甘露台中心の世界へと近づいていくのかも知れません。


いまなるのかんろふだいとゆうのハな 一寸のしながたまでの事やで(9-45)

このみちハどふゆう事にをもうかな かんろふたいのいちじよの事(17-2)


私達は、ただひたすら、世界を救けようとして下さる親神様のお働きを信じて、教祖のひながたに習い、神一条の精神を貫いて、神様のおさしづの理に従って通らせて頂くのみなのです。人間心でどうしよう、こうしようと思ったところで、指一本自分の力で動かす事の出来ない無力な人間には、何一つお道を変える事など出来ません。

どういう事も、こういう事も学者でも分からんで。一寸に分からん。どうしたらよい、こうしたらよいと、人間の心で出来る事は一つもあらせんで。人間の心で出けた事は一つも無いで(おさしづ 明治20年8月25日)

私達道の信者は、今まで親神様の思惑から遠く離れた道に心を寄せて通って来てしまいました。世界救けの道であるにも関わらず、我が身、我が家の悪因縁を建て替え、結構にたすかっていきたいが為に、そうした事を教え導いて下さっていた理の親の言葉
(人間の理)に心を寄せて通って来てしまいました。


おさしづに「成らん事に成らん心を運んでいる。親里々々をやの理を以って運ばんによって世界が救からん。この理を諭し置く」(明治23年6月17日)とお示し下さっております。

このお道が、個々の幸せの為の道ではない以上、そこに心を一生懸命運んでも意味はありません。世界救けの道なのですから、世界救けという目標に向けて、親神様のお言葉に心を寄せて通らなければ、何一つ成って来ない(世界が良くなって来ない)のは当たり前なのです。

人間の理を立てるから、だんだん道の理が薄くなる。人間の力で通れるか。道の理が無けねば守護はない(おさしづ 明治32年6月27日)

何も成らない事に、成らない心を一生懸命に運んでいても、何も成ってきません。お道の者が、世界の事なんか私達に関係ないという他人事の心では、神様もそのお道の者の心通り、何も出来ずに黙って行く末を見ている事しか出来ません。救けてあげたくても、救けて上げられないという親神様の残念の理が積み重ねられるのです。そうした残念の理はどこに行くのでしょうか。すべて、この世界救けの道に引き寄せて頂きながら、我が身思案しかせずに通ってしまったその身に返ってくるのだと思います。


その反対に、誰も世界の為にと言う道を運んでいない中で、自ら神様に願い出て、世界の為に通らせて頂きたいという心は、親神様、教祖に大変お喜び頂けるものと信じております。その心をお受け取り下さり、山のように積もり切った悪因縁、心の埃を払い、魂を磨くために、耐えれるくらいの艱難苦労の道をお与え下さり、その中を安心安全の内に守り通し、お連れ通り下さって、胸の掃除をして下さり、親の理を治めさせて下さって、世界の為に働く用木としてお育て下さるのです。その神様がお喜び下さった理も、最後には全て我が身に返ってくるのだと思います。

これから先、世界は更に大変な事に成っていくのだと思います。この世界救けの道がいつまでも進まなければ、私達人間はどんどんと生き詰まっていき、更に深刻な状況になっていく事が容易に想像出来ます。私達お道の者は、神様にお働き頂き、この世界救けの道が少しでも進んでいくように心を運び、勇んで通らせて頂かねばなりません。

神一条の道はどうでも付けにゃならん、付けさゝにゃならん
/\。さあ/\皆んな揃うて、日々に心が勇めば、神も勇む。さあさあ皆んな揃うて運ぶ事情(おさしづ 明治21年9月30日)



最近の日本政府の暴走は目に余るものがあります。とても日本国民の為の政治が行われているとは思えません。

親神様は、おさしづで

明治の代という、国会という。・・・これから先は神一条の道。国会では治まらん。神一条の道で治める(明治24年2月7日)

とお示し下さっておりました。

今、日本においての、日本人の主権が大きく失われようとしております。遡れば、第二次世界大戦敗戦後、日本はGHQの統治下の中で、徹底的な愚民化政策によって、適度な自由と娯楽を与えられました(3S政策・・スクリーン、スポーツ、セックス)

米国33代大統領ハリー・S・トルーマン)
猿(日本人)を『虚実の自由』という名の檻で、我々が飼うのだ。
方法は、彼らに多少の贅沢さと便利さを与えるだけで良い。
そして、スポーツ、スクリーン、セックス(3S)を解放させる。
これで、真実から目を背けさせることができる。
猿(日本人)は、我々の家畜だからだ。家畜が主人である我々のために貢献するのは、当然のことである。
そのために、我々の財産でもある家畜の肉体は、長寿にさせなければならない。
(化学物質などで)病気にさせて、しかも生かし続けるのだ。
これによって、我々は収穫を得続けるだろう。これは、勝戦国の権限でもある。


また、学校教育においては、日本はアジアの国々に攻め込み、大変な迷惑をかけたのだという嘘の教育をされ続けた結果、自国に対しての誇りを失う日本人ばかりになってしまい、国の為にという考えが日本国民から消え去り、自分達の生活を守る為だけに考え、働き、行動をするようになってしまいました。
そして、メディアや教育、娯楽によって、政治に目がいかないように、興味をなくすように仕向けられました。国民の目が政治に向かなくなれば、少数の政治家のやりたい方向へ日本を進める事が出来るようになります。日本人は真面目な方が多く、決められたルールには従いますので、日本人を思うままにコントロール出来てしまいます。日本人が日本国の為の政治が出来るならいいのですが、敗戦国の日本には戦勝国である米軍基地が全国に100以上作られております。月に2回程度、日米合同会議と称して、米軍の代表と日本の代表が話し合いをするそうです。その時の話し合いの結果は、日本の憲法や、法律よりも重いそうです。敗戦後の日本は、表向きは民主主義ではありますが、その裏ではアメリカの決定事項にそった政策をしていると言う話もあります。(どこまでが真実の話かはよくわかりませんが)

とふぢんがにほんのぢいゝ入こんで まゝにするのが神のりいふく(2-32)

そして、現在日本政府が進めているのが、憲法9条改正と緊急事態条項であります。これは、米中戦争になった時に、日本人を最前線で戦わせる為の準備だとも言われております。憲法を改正して、再び戦争の出来る国にして、戦争が起これば緊急事態なので政府が一方的に法律を改正して国民が戦争に駆り出されるのでしょう。国を守る為に戦うならまだしも、戦争はほんの一部の人間が儲けるための戦争ビジネスの為に作られる事もあるそうです。そうした欲にまみれた僅かな人間の為に、多大な尊い命が使い捨ての道具のように利用され、失われていくのです。
多くの方々が日本はもう後がないと必死に訴えておられます。将棋で言えば、王手をかけられているようなものでしょう。今政治家の中にも、本当に日本の事を考えて、命がけで声をあげ、馬鹿にされても必死で戦おうとしている方々も多数いらっしゃいます。本当に頭が下がる思いであります。
しかし、考えてみれば、例えばそういう人達が、日本人に支持され政権をとったとしても、権力のあるところには、その権力を利用しようとする者が集まり、お金が集まり、欲に流される者が出てきて、結局今と同じように、利権まみれの汚れきった政治に成っていくのだろうと思います。そうして考えれば、悪いのは自民党でも、アメリカでもなく、政治が悪いわけでもありません。欲に流されてしてしまう人間の本質が悪いのだと思います
。よく歴史は繰り返すと言われますが、人間の本質が変わっていかない以上、同じ事を繰り返りしてしまうのは、当たり前の事なのかも知れません。人間の本質である心を変えていかなければ、未来永劫陽気暮らしの世界は実現しないのです。その心を変える事が出来るのは、この神様がお付け下さった神一条の道しかなく、それが教祖のお示し下さったひながたの道なのです。


神の道は心を直す(おさしづ 明治33年10月11日)

この世界救けの道の為に働けるのは、親神様によってこの世界救けの道に引き寄せて頂いた私達お道の者以外おりません。他に誰も通れる人がいないのです。

このみちをはやくつけよとをもへとも ほかなるとこでつけるとこなし(2ー14)

だからと言って、何も大きい事をする必要はありません。特別な事をする必要もありません。知恵を働かせる必要もありません。(全てお道の邪魔になってしまいます)ただ親神様を信じ切って、凭れ切って、世界の為にという心を働かせ、日々に親神様のおさしづの理を持ち運ぶだけであります。
勇気をもって神様の理を第一に立てて通らせて頂いておれば、どんな中であっても親神様、教祖が守り通して下さいますから恐れる事はありません。


この切羽詰まってしまった世界や日本の状況をひっくり返す事が出来るのは、このお道しかかなく、このお道の為に働かせて頂く事が出来るのは、私達お道の者しかおりません。お道の者は、世界にとっての最後の砦みたいなものでしょう。
お道の者同士、親神様にお勇み頂けるよう、陽気暮らし世界実現の為に一手一つとなり、勇み心をもって頑張っていきましょう。


しんじつの心あるならなになりと はやくねがゑよすぐにかなうで

とのよふな事ハいかんとゆハんてな たすけ一ぢよせゑているから

こらほどに月日の心せきこめど そばの心わなんでいづむど

はや
/\と心いさんでせきこめよ 月日まちかねこれをしらんか

月日よりぢうよぢざいをしんじつに はやくみせたいこれが一ぢよ
(おふでさき 7ー46~50)

明治二十二年十一月九日(陰暦十月十七日)午後十時半
刻限御話
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さあ/\だん/\話掛ける。どういう事を話掛けるなら、一寸難しいように思うやろう。余儀無き外一つの理は諭さん。何かよく聞いてくれ。いつ/\まで、これより代々長く/\続く理を諭そ/\。
さあ/\遠く/\という。遠く理というは、これいつ/\の事情に思うて、皆分からん、分からんから待ち兼ねる。遠く事情という、世界大きい一つ事情、今の一時は皆めん/\一つ/\の心である。めん/\心の理を治めよう。遠く事情世界と言う。成らん事情を無理に通れ。長く事情やない。さあ/\まあ一寸今という今、もうこれ譬え一つの理を諭して、もうこれ三年々々という理を諭し掛けたら、どういう事であろう。三年の理を待ち兼ねる/\。一寸一日二日三日つい経つものや。三年と言えば長いように思う。一度定めた心は生涯という。何かの事情もよう聞き分け。いつ/\までも変わらぬよう。間違う話はせん程に。よう事情を聞き分けてくれるよう。世界の理上、遠くの事情を聞いて日々と言う、年々と言う。早く治め掛ける。何か思案定めてくれ。難しい事は言わん。難しいと思えば大変難しいであろう。なれどもひながたの道を思えば、何も難しい事は無い。なれども心一つの理によっては難しい。長くの事情ならば退屈するであろう。楽しみの道を諭して楽しみ。一年又年々今に種を蒔いて、今に生えようまい、花は咲くまい。これは余程旬早く早くの理のものを寄せる。聞くや否一つの道や。一夜の間にもどんな事という。一寸まああれこれの事情を諭し置こう。
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さあ/\だん/\話掛ける。

 

(さあ/\それぞれの年限の理を見て、速やかに世界一列救けたいばかりの真実誠の天の道理をだん/\と話掛けるで。)

 

どういう事を話掛けるなら、一寸難しいように思うやろう。

 

(どういう事を話し掛けると言うなら、どのような事も神の思惑通りに運ばせて貰おうと定める一つの理によって、一寸先も通れない己の運命を速やかに改めて貰うようと言うのだが、濁り心に自分を支配されて居る間は、たったそれだけの事が一寸やそっとで出来ない難しい事のように思うやろう。)

 

余儀無き外一つの理は諭さん。

 

(何かの事も神の思惑通りに運ぶなら安心安全に治まるが、余儀無き外一つの理〈神様の思惑から外れるなら心通りの難しい事情に陥るのは避けられないのであって、それ以外の一つの理は諭さんで。)

 

何かよく聞いてくれ。

 

(何事も、神の思惑通りに運ぶ理より他に治まる理は無いという事情をよく聞いてくれるよう。)

 

いつ/\まで、これより代々長く/\続く理を諭そ/\。

 

(いつ/\までも神の思惑通りに治めようとするなら、これより代々末代長く/\続く誠天の理を諭そ/\と言うのや。)

さあ/\遠く/\という。

 

(さあ/\結構な末代の道を治める為に、澄み切った神の心から遠く/\離れた濁り心を改める道と言うのやで。)

 

遠く理というは、これいつ/\の事情に思うて、皆分からん、分からんから待ち兼ねる。

 

(真実誠の神の思惑から遠く離れた理というは、たった一つの人間救済の理であるひながたの道を、これいつ/\の事情〈これこれしかじかという、いついつの人間離れした道の事情のように思って眺めて居るだけであって、それがたった一つの超現実的な人間救済の理である事を皆が分からんという事であり、最も肝心な処が分からんから、皆々の心の成人を待ち兼ねるより仕方がないと言うのや。)

 

遠く事情という、世界大きい一つ事情、今の一時は皆めん/\一つ/\の心である。

 

(神の思惑から遠く離れた事情というは、今一時の自分達の都合を後回しにしてでも世界救けの為に尽くさせて頂こうという大きい一つ事情が治まらないという理であるが、治まった誠の理を受け取って鮮やかに神が働いてやる事が出来ないから、今の一時の処は皆めん/\の一つ/\の心通りの道に成ってしまって居ると言うのや。)

 

めん/\心の理を治めよう。

 

(救けたいばかりの真実誠の神の話を聞いても素直に聞き分けられず、我が身の都合ばかりを第一に考える皆々の濁りの理が世界に写り、それによって世界が狂ってしまうのやから、そのような悪循環を断ち切る為に、何事も神の思惑通りに運ぼうとするような、めん/\の真実誠の心の理を治めようと言うのやで。)

 

遠く事情世界と言う。

 

(神の思惑通りに運ぶ事が出来ない遠くの事情というは、教祖ひながたの道に習って道の為世界の為に尽くす事が出来ない残念な事情と言うのやで。)

 

成らん事情を無理に通れ。

 

(ひながたの道は容易に運ぶ事が出来ない難しい道だと思うであろうが、どうにも成らん難しい事情を無理に通れとは言わんでな。)

 

長く事情やない。

 

(己を捨てて道の為世界の為に尽くすひながたの道といっても、何時何時迄も続く長くの事情や無いで。)

 

さあ/\まあ一寸今という今、もうこれ譬え一つの理を諭して、もうこれ三年々々という理を諭し掛けたら、どういう事であろう。

 

(さあ/\まあ一寸には治まらない今という今の事情を改める為に、もうこれ譬え一つの理〈もうこれより他に救ける理は無いという道であって、どうする事も出来ない難問を解決する為に、他の事情に置き換えて救けようとされる一つの理であり、長い年限の間に積み重ねた山のような悪因縁をすっきりと掃除して結構な末代の理を治めて下さる為に、一時の苦労艱難の理に換えて救けようとして下さる真実誠のひながたの道〉をたった一つの人間救済の理であると諭して置き、末永く人として生かされる為にはもうこれより他に道は無く、その為には、三年々々千日の道より他に治まる理は無いという理を諭し掛けたら、皆どういう事であろうと思うであろう。)

 

三年の理を待ち兼ねる/\。

 

(人間の力で通り抜けられるような道では無いから、何もかも神に任せて通る三年千日の理を待ち兼ねる/\と言うのやで。)

 

一寸一日二日三日つい経つものや。

 

(神に守られ通る安心安全な道といっても一寸には辛いような道であるが、一日二日三日というものは、知らない間についつい経つものやで。)

 

三年と言えば長いように思う。

 

(人間は皆案じやすいものであるから、三年の苦労艱難の道だと言えば、終りの見えない長い道のように思うであろう。)

 

一度定めた心は生涯という。

 

(神を信じて付いて来るなら、心通りに神が働いて守り通してやるから何も心配は要らないが、その為には、一度定めた心は生涯変わる事の無いよう運ばなければならないと言うのやで。)

 

何かの事情もよう聞き分け。

 

(何かの事情も、神の思惑通りに運ぼうとする澄み切った心の理によって治まるという理をよう聞き分けてくれるよう。)

 

いつ/\までも変わらぬよう。

 

(又皆々の末代の道を暗転させない為にも、いつ/\までも心が変わらぬようと言うのや。)

 

間違う話はせん程に。

 

(素直に神の話を聞き分ける事が出来るなら、どのような事も間違うような話はせん程に。)

 

よう事情を聞き分けてくれるよう。

 

(素直な心一つによって末代までも結構に治まる天の道だと悟り、よう事情を聞き分けてくれるよう。)

 

世界の理上、遠くの事情を聞いて日々と言う、年々と言う。

 

(世界治まりの理上と、神の思惑から遠く離れた残念の事情を聞いて速やかに心を改めるなら日々の理が治まると言うのであって、日々の理が治まれば年々の理も治まると言うのや。)

 

早く治め掛ける。

 

(一日も早く神の話を聞き分けて実践をし、末代までも結構に治め掛ける道やで。)

 

何か思案定めてくれ。

 

(その為にも、神の思惑に沿った何かの澄み切った思案を定めてくれるようと言うのや。)

 

難しい事は言わん。

 

(定まった誠の思案を受け取って神が働く道であるが、人間に出来ないような難しい事をしてくれは言わんでな。)

 

難しいと思えば大変難しいであろう。

 

(難しい事をしてくれとは言わないが、難しいと思えば、心通りの理が働いて大変難しい道になるであろう。)

 

なれどもひながたの道を思えば、何も難しい事は無い。

 

(難しい道のようなれども、生涯掛けて何の楽しみも無い苦労艱難の道を運んだ教祖ひながたの道を思えば、何も難しい事は無いで。)

 

なれども心一つの理によっては難しい。

 

(神が連れて通すから難しい事は無いなれども、素直に神の話を聞き分ける事が出来ない心一つの理によっては、心通りに難しい事に成るのやで。)

 

長くの事情ならば退屈するであろう。

 

(何ものにも屈しない固い精神を定めて神の思惑通りに運ぶ長くの事情ならば、どのような中も安心安全に守られ通る道に退屈さえもするであろう)

 

楽しみの道を諭して楽しみ。

 

(又一人先に立ってひながたどおりの道を運び、結構な楽しみの道である事を皆々に諭してこそ、末代失う事の無い結構な楽しみの理が治まるのやで。)

 

一年又年々今に種を蒔いて、今に生えようまい、花は咲くまい。

 

(結構な先々の理を治める為に、一年や又年々に真実誠の種を蒔いて置く道であるが、今に種を蒔いても今には生えようまい、十分な年限の理が治まらなければ花は咲くまいと言うのやで。)

 

これは余程旬早く早くの理のものを寄せる。

 

(一寸やそっとには結果の出ない道であるが、これは何ものにも屈する事の無い余程の固い精神を定めて時旬の理に従い、一時も早く早くひながた通りの道を運ぼうとする真実誠の理の者を寄せる為やで。)

 

聞くや否一つの道や。

 

(聞くや否、速やかに実践しようとする捨て身の精神によって何事も治まる一つの道だからやで。)

 

一夜の間にもどんな事という。

    

(何事も速やかに聞き分けて実践する力が有るなら、一夜の間にもどんな事も治まるというのや。)

 

一寸まああれこれの事情を諭し置こう。

 

(それ程の道なら一寸まあ私もやってみようかというような、御身の為に成るあれこれの事情を諭し置こうと言うのや。)





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「阿保は神の望みや」と教えて頂いております。神様を信じ切って、凭れ切って、親神様が教えて下さっている事であるなら、是非その通りに通らせて頂こうと言う素直な心と、何も考えず安心して飛び込める捨て身の精神が、このお道では何よりも大切なのだと思います。そして、それが何よりも難しい事なのだという事を痛感しながら信仰をさせて頂いております。しかし、おさしづでは「難しい事は言わん。難しいと思えば大変難しいであろう。なれどもひながたの道を思えば、何も難しい事は無い。なれども心一つの理によっては難しい。と教えて頂いております。
神様は人間に出来ないような難しい事は仰せになられてはおりませんが、人間には、魂にこびりついてしまっている埃や因縁がありますので、その因縁が邪魔をしてしまい、親神様のお話を心に治める事も難しく、また、承知が出来ても因縁が邪魔をしてしまい、実践に移すのも難しいと思えてしまいますので、今度はその心通りに難しくなると教えて頂いておりますから、更に難しいですね。

初代会長様は「この道は何も難しい事はないよ」と度々お話下さったそうです。天理教のお話を聞かせて頂くと、何か複雑でややこしさを感じてしまいますが、本来このお道はそんな難しいものではないのだなと感じております。「難しくない」とは、「複雑ではない」という事なのです。親神様が人間の方に求めておられる事は、おそらく極めて単純な事なのだと思います。結論から言えば、教祖のお通り下さったように、どうでも神一条の精神で、神様の直々の御言葉であるおさしづ、おふでさきに従って通らせて頂く事だけなのだと思います。たったそれだけの事なのですが、たったそれだけの事が難しいのです。難しく感じてしまうのです。

神様の思し召しに従って通らせて頂きたいのであれば、まず神様が人間に何を求めて下さっているのかを知らなければ通りようがありませんが、人から教えて頂く話は、必ず狂いがありますから、神様の直々の御言葉から、神様の本当の想いを求めなければなりません。とは言え、神様の理は頭で理解するものでもありませんから、おさしづ、おふでさきから理の勉教をして頭に叩き込む、暗記する必要もありません。(とは言え、理の勉強はしなくてはいけません)
神様の本当の想いを知りたい、神様の思惑に従って通らせて頂きたいという精神で、常日頃から神様の本当の想いを求め、おさしづを拝読し尋ねれば、神様が
胸の内から教えて下さるのです。

「このところよろつの事をときゝかす 神いちじよでむねのうちより」

そうしておさしづを通して、親神様から教えて頂いた事を素直に信じて、
その時は正解なのか不正解か分らなくても、「神様の教えて下さった事であるなら」と自分の価値観や考えは捨ててしまい、勇気をもって、心において、大切にして、第一に立てて通らせて頂いておれば、わかってもわからなくても、実践が出来ても出来ていなくても、信じていても信じ切れていなくても、気が付けばそのおさしづが胸に治まっていき、親神様を信じ切る心も強くなっていくのです。

神様が、おさしづを通して胸の内から教えて下さる理を第一に立てて通れば、その捨て身の精神や、素直な心をお受け取り下さり、胸の掃除をして悪因縁や埃を払って下さって、人間にとって何よりも大切な宝物である神様の理を心に治めさせて下さるのです。そうすれば、自然と心が切り替わっていくのです。心は「変える」のではなく、気が付けば「変わっている」ものなのです。神様のおさしづの理を第一に立てて通らせて頂く事で、神様のお働きによって変わっていくのです。神様の理は、人間が自力で頭に叩き込むものではないのです。人間に出来る事は、ただひたすら神一条の精神を貫く事だけなのです。後は全て神様のお働きによって成ってくる事ばかりなのです。神様のお働きも無しに治まる理は一つもありません。

なので、おさしづは一見難しく感じても、自分の頭で理解して覚えていくものではなく、神様のお働きによって治まっていくものですから、何も難しい事はありません。誠に有り難く、もったいない事に難しい事は神様がして下さるのです。「心通りの守護をする」と教えて頂いている通りなのだと思います。どうでも神様の想いに従って通らせて頂きたい、親神様、教祖のお役に立ちたいという真実の心で、おさしづに通り方を尋ね、神様を信じて凭れ、人からどんなに批判されても、ただひたすらおさしづの理を心において通らせて頂く神一条の精神を持って通らせて頂いておれば、親神様がその心を見定めて下さって、その心をお受け取り下さり、心通りに神様の理を心に治める事の出来るよう、お連れ通り下さるのだと思います。

「神一条の理どうであろ、思うた処で治まると言うたら十分。それそれ心尽し十分心受け取る。一時一つ何でも生涯末代。この理一時聞かし置く。治まるというは、心一つを以って治まる。しっかり聞いてくれるよう」



また、おさしづで「神の道は胸の道・・・中略・・・神の道は胸三寸の道であるから、通ろうと思うても通れん」とお示し下さっております。よく「お道を通る」と表現されますが、本来はこの神様の道は通る道がないのです。をにおいがけ、おたすけや、御本部、教会での参拝、お勤め、ひのきしんなど目に見える形で勤める御用は沢山ありますが、その行い自体がお道を通るという事にはなりません。このお道は「心の道」であり「胸三寸の道」と教えて頂いているのですから、何かをすればいいとか、どこかに行けば通れるという物質的なものでもありません。
ただひたすら神様の理を見つめ、神一条の精神を定めて、どんな事でも精神的に神様を信じて、その御言葉を心において通らせて頂く事が「お道を通る」という事であり、親神様がその心を見定めて、お受け取り下さり、心通りに自由自在の天然自然のお働きによってお連れ通り下さる道が「神の道」であり、胸の掃除の道(魂を磨く道)なのだと思います。そのお連れ通り頂く艱難苦労の中を、「世界の為に」と満足、たんのう、堪忍、辛抱の心で治めて通らせて頂いておれば、後は年限の理によってだんだんと心の掃除をして下さり、掃除された分だけ神様の理が胸に治まり、その分だけ心の成人が進み、お道も進んでいくのだと思います。

更に言えば、そうしたお道の成果や、自身に起こる心の変化さえも、人間は急かずに通らなければなりません。おさしづでは「急かなければならない事、急いてはならない事」を教えて頂いております。
私達が急がなければならないのは、一刻も早く神一条の精神を定める事と、世界救けの為の種まきなのです。どんな事も種が無ければ生えて来ません。お道の者が世界救けの種を蒔かなければ、神様が働きようがないのです。なので、お道の者は神様の御心をさとり、聞きわけて、出来るだけ多くの真実の種(お道の為、世界の為の不自由、艱難苦労の道)を嬉しい心で蒔いておくのです。しかし、蒔いた後の結果を急いではいけません。一年で蒔いた種が一年ではならないのです。しかも、大きいものなら尚更、大きくなるにはそれだけの年限がかかるのです。蒔いた後は、神様のお働きによって進んでいく世界救けのお働きを楽しみに待ちながら、さらなる種を蒔き続けていくのです。

このお道の目的は「世界救け」であり、世界一列が陽気暮らし世界に建て替わる事でありますが、だからと言って世界中を回って、時に危険なところに足を踏みいれて、命がけで神様のお話を取り次いで来なさいと言われているわけでもありません。

神様は、単独布教に出ようとした方に対するおさしづで
「さあさあ、尋ねる事情を、どうせともこうせとも、行けとも行くなとも、どうしてやろうともこうしてやろうとも、この処、前から言うた事はないで。何事も皆銘々の心次第と言うてある事やで。何処にいても月日の身の内や。何処に居るのも同じ事、誠の心一つや。誠が天の理や。天の理にさえ叶えば、何処に居たとても道が付くで。実誠無けねば、何処い行たとて、何をしたとて道は狭ばむばかりやで。しいかり聞き分ねば分からん。しいかり聞き分けて諭すがよい」
と教えて下さったそうです。

このおさしづを拝読させて頂きますと、やはりこのお道は形でどうしたら良いとか、こうしたら良いとか、そう言うものではないのだと思います。親神様を思う心、世界を思う真実誠の心も無しに、ただ天理教を盛り上げよう、信者を増やそう、盛大にして行こうと言う心では、どれだけ何をしても道は狭くなるばかりなのは、今の天理教の姿を見れば一目瞭然であります。この信仰は一名一任であります。一人一人が親神様を見つめ、親神様の想いを求め尋ねていく神一条の精神を定めていかなくてはいけないのだろうと思います。本来は、そうした心の寄り集まりが教会、布教所でなければならないのだろうと思います。

「どうでもしんじんするならバ かうをむすぼやないかいな」
(みかぐらうた五下り目)

お道の心(神様の理)を抜きにしてしまえば、どれだけ人数だけ増やして、どれだけ建物を立派にしても、その心通りお道の心は次第になくなります。お道の心がなくなるという事は、すなわち神様の理が薄くなる、と言う事と同じであります。神様の理が薄くなれば、当然お道は狭くなるばかりなのです。

そもそもこの世界救けの道は、人間の力で推し進めていくものではありません。日本中の用木が、一人残らず世界の人に神様のお話を伝える為に、をにおいがけに力をいれようとしたところで、現実的に考えれば不可能なのは誰もがわかる事だと思います。しかも、神様のお話を取り次がせて頂くとしても、まず一人一人が神様の理(思惑、御心、定めて下さった天理天則)をしっかりと心に治めていなければ、一体どんなお話を人様に聞かせるのですか?自分が勝手に感じているお道の価値観をお話するだけでは、このお道に錆を拵えるようなものであり、それはお道の為にはならず、そんな人間心を「これがお道なんです」とお話してしまえば、かえってお道の邪魔にさえなります。私達がお道の為にさせて頂ける事は、神様にお働き頂く為の段取り(種まき)をしていく事だけです。人間の力で人間を救ける事は出来ません。神様にお働き頂かなければ、お助けなど出来ない事は経験をされた方なら身に染みて感じている事だと思います。

このお道に、世界救けの道具として引き寄せられた私達道の信者がさせて頂くべき仕事は、世界救けのお役に立てるよう、教祖のひながた通り、神様を信じて、神様の真の想いをおさしづから自ら求め、勉強をさせて頂き、そのおさしづを守って通らせて頂く精神を定めて、どんな中でも踏ん張って、時に勇気をもって、ただひたすら神一条の精神で通らせて頂く事のみなのです。それが唯一出来るお道の者の仕事であり、世界救けの為の種まきなのです。後はすべて神様のお働きによって成ってくる事ばかりなのです。種を蒔いた後と同じで、収穫が出来るまでの作物の成長は、自然にお任せするしかないのです。人間が作物を引っ張って大きく伸ばす事は出来ませんし、味をつける事も出来ません。すべては神様のお働きなのです。その神様のお働きを頂く為に出来る事が、人間による種まきなのです。今の天理教は、どちらかと言うと、種まきではなく、本来人間の力の及ばない部分(作物を引っ張って大きくしよう、野菜の味をつけよう)に力を入れているような気がします。


神様にお働き頂いて、個人の胸の掃除をして頂き、神の理を心に治めさせて頂いて、心の掃除をされた用木がさらに世界救けの種を蒔こうという心の働きを続け、世界救けのお役に立ちたい、神様教祖の道具衆として少しでも働かせて頂きたいという真実の心をお受け取り下さり、その種を神様のお働きで大きくして下さり、世界救けの道を進めて下さるのだと思います。そして、この世界救けの道の為に、神様の想いを聞き分けて、出来るだけの不自由、苦労艱難の道を通れば、時旬が来た時に一粒万倍に治まって世界救けの道が更に大きく広がっていくのだろうと思います。


私達道の信者に出来る事は、そうした神様のお働きを信じ切って、世界の為に神様の御言葉に従う事だけなのです。何も難しい(複雑、ややこしい)事はありません。神様の御言葉を信じきれない人間の心一つが難しく、捨て身の精神で神様の御言葉を信じ切って凭れ切って通らせて頂く心一つが物種なのです。


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