教祖が、ある時、山中こいそに、「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな。」と、仰せになった。こいそは、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳が頂きとうございます。」 と、お答え申し上げた。
というお話しがあります。
今回は「目に見える徳」と「目に見えない徳」について記事にしていこうと思います。
そもそも、「徳」とは物質的なものではないので、目に見えるものではありません。なので教祖のご質問の意図を思案させて頂く為には、徳の本質を知らなければならないと思います。
教祖が徳について、このようなお話をして下さったそうです。ある日、教祖がお屋敷で勤めている方に、大小様々な器を庭に置くように御指示されたそうです。その後、雨が降ってきたのですが、その時に教祖が「天の与えは皆平等であるけれど、器の大きさによって与えが変わる」と仰せになられたそうです。これが「徳」というものだそうです。「徳」とは「器」なのです。教祖は、その徳(器)に何を入れたいかという事をお聞き下さったのだと思います。
目に見える徳を入れて頂くなら、地位や名誉、財産をお与え頂くという事になるのだと思います。現在のお道では「お金がある」「地位や名誉がある」事が徳のある姿であり、お道を一生懸命信仰してお徳を積んで成功しようという方向に、天理教組織を筆頭に大多数の信者さんが進んでいるように見えるのです。そこまであからさまに出世しよう、財産を築こうと思わなくても、少しでもお道でお徳を頂き、自分の思う通りに事が運ぶよう、幸せに、結構になれるよう、親神様から何かしらの御褒美が頂けるような道を目指している方が多いように思えてならないのです。
そもそも徳は目に見えませんので、無意識のうちにでも、そこを目指すという事は「目に見える徳」を求めているのと同じ事なのです。
では次に「目に見えない徳」について考えていきたいと思います。目に見えない徳を頂くとは、「神様の理(おさしづの理)」を心に治めて頂く事だと思います。心(魂)と言うものは、この世の中で唯一「我が理」としてお許し頂いているものであり、末代まで生き通しのものであります。目に見える徳であるお金や地位は、来世にもっていく事は出来ませんが、心に治まった神様の理は、生涯末代、心に持って通らせて頂く事が出来るのです。(同様に埃の心と悪因縁も掃除しない限り魂にこびりついたままなのです)今世で魂に徳を積み、その器に神様の理を治めさせて頂けば、その治めた理は失う事のない生涯末代の宝になるのです。
それで何が変わるんだと思われる方もいらっしゃるのかも知れませんが、人間の魂は末代まで生き通しでありますので、長い長い目で見れば、とてつもなく大きく変わっていきます。神様の理を治めて通る人と、我が身思案でお道を通る人とでは、先へ行けば行くほど天と地ほどの差がついてしまいます。
人間は、どんな人でも自分の持つ価値観や世界観の中で生きているのです。世の中には「神様はいない」と思って生きている無神論者や、人生は一度きりだから楽しまなきゃ損だと思っている方が大勢います。例え事実とは違っても、その人達にはそういう世界にしか見えないので、自身のそうした世界観の中で生きているので、今だけの事を考えながら人生を楽しんでいるのでしょう。
めへ/\にいまさいよくばよき事と をもふ心ハみなちがうでな(おふでさき3ー33)
人間は、そうした自分の価値観や世界観を持って一日を通して様々な心を使いながら生きているのです。お道の中でもそうでしょう。自分が助かる為のお道だとしか思えなければ、自分や家族の為に教会、布教所に足を運んで、「徳を積もう、徳を積もう」と頑張って通るのです。世界の為のお道だと承知が出来れば、その為に自分の都合を捨てて、神様の御言葉に従って通るのです。教祖は「心の使い方によって徳にもなれば埃にもなるで」とお話し下さいました。日々に使う心は、徳にもなれば埃にもなります。また、陽気暮らしの世界につながる大切な種にもなれば、世界を破滅に向かわせてしまう恐ろしい種にもなってしまうのです。更に言えば、お道の者が日々使う心が我身思案で濁っておれば、鏡屋敷であるぢばも曇ってしまい、神様の理が世界には映らず、どれだけ年限が経っても世界が建て替わる事がありません。人々の心が建て替わらなければ、人間は欲望の赴くままに破滅の方向へ突き進むのみなのです。(教祖は「狂うた話した分にゃ、世界で過ちが出来るで」と御忠告下さいました。狂った話を聞いた人は、「お道とはそういうものか」と間違ったまま受け取って通ってしまいます。皆が皆、神の道を間違った認識で通ってしまえば、それが世界に映ってしまい世界で過ちが出来てしまうのです。だからこそお道のお話は狂わしてはなりませんし、お話をさせて頂く方も、聞いてもらいたいが為に人間の都合の良いような、ニンジンをぶら下げたようなお話をしてはいけません。例え聞いてもらえなくても、神様のおさしづ通りのお話をしなければ、世界を狂わす元を作ってしまう結果になってしまいます。また、信仰は一名一人でありますので、信仰心のある方は人の話を頼りに通るのではなく、直々の神様の御言葉から神様の道の通り方を求めていかなくてはならないのです。そういう用木が増えて来なければお道は変わっていかないのです。)
なので「目に見えない徳」である神様の理を心に治めるという事が先々の運命の重大な別れ道になるのです。
ここで、少しだけ話がそれてしまい大変恐縮なのですが、よく教理の勉強をしておりますと「知識だけでは助からん」「知識の信仰ではいけない」「頭でっかちの信仰になる」と言われる事がありますので「知識だけの信仰」と「神様の理が心に治まった信仰」の明確な違いをお話ししたいと思います。
私が布教所で住み込みをして、青年会をさせて頂いていた頃の話です。私は120年祭の年に「かしもの、かりものの教理」が人間にとって、本当に大切な事だという事に気が付かせて頂いたのです。その時に初めて、心の底から「神様の為に何かさせて頂かなくては申し訳がない」と思えたのです。(中々実践は難しいですが・・)
かしものかりものの教理の重大さに気が付かせて頂いた私は、青年会や少年会で度々そうしたお話をさせて頂いておりました。そんなある日、ある青年会の人に「かしもの、かりもののお話しは、理屈はわかるんだけど有難いと思えないんだよね」と言われたのです。これが「知識だけ」と「心に治まった」の違いなのだと思います。知識だけとは、知っているだけなのです。人間にとって重大な事だと承知が出来ないから、知っていてもその次に起こす行動に繋がらないのです。
他にも例えるなら、この信仰は「世界救けの道」である事は、お道の者であるなら誰でも知っている事でありますが、知っているだけなのです。それが世界にとっても、自分にとっても重大な事なのだと思えなければ、他人事のように日々を通る事しか出来ず、その為の行動には移せないのです。
こんな事を書いてしまうと、「えらそうな事を言って、心に治まれば実践もたやすく出来るでしょ?実践が伴わないなら心に治まったと言えないよ」と思われてしまいそうですが、100パーセントの実践は簡単に出来るはずはありません。心に治まったとしても、因縁や埃は払い切れてはおりませんから、させて頂こうと思っても、因縁や埃が邪魔をしてしまう事が多いのです。だからこそ、信仰は自分との闘いであり、自分自身が神様の理を見つめて進む一名一人の道なのです。
この信仰は「だんだんの道」と教えて頂いております。まず神様の直々のお話(おさしづ、おふでさき)を聞かせて頂く事が信仰の始まりであります。それは神様の本当の想いを求める真実の心がなければ出来ない事であり、本来はそうした心を信仰心と呼ぶのだと思います。助かりたい、結構になりたい、幸せになりたいからお道を通るという心は、神様に対する信仰心とは言えません。幸せになりたいという心は人間であるなら誰もが持っている心なのです。我が身の都合を第一には考えるのではなく(我が身の都合を第一に考えて通る心は埃や悪因縁を積む元であります)、自分の都合は捨ててしまい、神様の御都合に合わせて通らせて頂こうとする心が信仰心であると思います。そうした信仰心からおさしづ、おふでさきを拝読させて頂き、分かっても分からなくても、出来ても出来なくても「神様のお言葉ならどんな結果になろうとも・・」と損得抜きにして、心において通らせて頂くのです。そうした心を神様がお受け取り下さり、胸の掃除の道(艱難苦労の道)をお連れ通り下さって、心の埃や悪因縁を払って下さるのだと思います。そうして段々と心を綺麗にして頂いた分だけ神様の理が心に治まり、治まってこれば「大事な事だったのだ」と承知が出来、大事な事だと承知が出来たからこそ、毎日おさしづの理を心において通らせて頂く事が出来るようになって来るのです。それでも自分自身の魂にこびりついている因縁や埃が邪魔をしてしまい、出来ない日もあれば、面倒に感じてしまう事もあります。その中を自分に負けないよう、出来ても出来なくても、成っても成らなくても、誰に反対されてもという心で、おさしづの理を心の中心において通らせて頂いておれば、誠にもったいなくも、親神様が足らない所は足して下さいます。神様の誠に有り難いお働きによって、年限と共におさしづでお示し頂いているお言葉が、自身のお道に対する考えや価値観になっているのです。それが神様の理が心に治まるという事なのだと思います。そうして、神様の価値観に近づかせて頂く事が出来れば、その価値観を持って一日を通れるようになるのです。神様の思し召しに適った心を使い、世界救けの為の一日が通らせて頂けるようになるのだと思います。そうした用木が増えて来たら世界救けの道が一段と進む事になるのだと思います。
初代様が「人間心を打ち忘れ神の心に成りて来い」とよく教えて下さったそうです。お道の者は、世界救けの為に神一条の精神を定め、貫き、神様に胸の掃除の道をお連れ通り頂いて、神様の理を心に治めさせて頂いて、神様と同じ価値観に近づいていかなければならないのです。いつまでも「何となく知っているだけ」ではいけませんし、神様の御言葉を「知ろうとしない」「興味がない」では、そもそも話になりません。
「知っている」が「大事な事」に変わっていき、それが自分の価値観になっている事が「心に治まる」という事なのです。(もっとお道が進めば、違う景色が見えてくるのかも知れませんが・・・)
だんだんの道なのですから、一足飛びに治まるものではありませんし、そもそも神様の理を自ら求めようとしない人に治まる理は一つもありません。
きゝたくバたつねくるならゆてきかそ よろづいさいのもとのいんねん(1-6)
こんな事を書いてしまうのは本当に失礼な事だと思うのですが、おさしづを通して神様の理(神様の本当の思惑)を知ろうとしていない人は、信仰の入り口にも立てておりません。まず神様の御言葉を知る事が信仰の入り口に立つ事であり、勇気をもって一歩でも前に進む事が信仰の始まりなのです。何も分からなくても、出来ても出来なくても、少しずつでも神様のおさしづを拝読させて頂いて、出来る処から実践をさせて頂く事が信仰の歩みなのです。そうして、分からない中、難しい中でも神様のお言葉だけを頼りに、神一条の精神をもって進んでいくのです。「闇夜のカラス、声を頼りについて来い。夜が明ければ成程の道」と教えて頂いておりました。神様のおさしづを一筋に通らせて頂いておれば、その時は分からなくても、迷う事や苦しい事があっても、必ず「成程」と思える日が来るのです。(一言お断りをしておきますが、理の親の言葉に従って、理の親を立てて通るという信仰を心掛けながら、信仰の知識を身につける為におさしづ、おふでさきの拝読をしても神様のお受け取りはありません。神様がお受け取り下さらない以上、胸の掃除の道をお連れ通り頂く事も出来ませんので、そうした心を持ちながら神様のおさしづを拝読されても神様の理が心に治まる日は来ません。神様はそれぞれの心根を見抜き見通しであります。おさしづで「赤きは赤き、黒きは黒きに連れられ・・」とお示し下さっております。そもそも人間を頼りに通ろうと思っている時点で、その心通り人間の親にお連れ通り頂いているのですから、その親を飛び越えて神様の御話しを知識として身につけようとしたり、お話の種にする為の勉強としておさしづ、おふでさきを拝読しても、それでは心と行いが一致しておりません。ましてやそうして知識として覚えた神様の理を使い、お連れ通り下さっている理の親の批判をするなど筋違いも甚だしく、それでは神様から「違うよ」と教えられても仕方がありません。神様の理だけを頼りに、精神的に神様を信じ切る心でおさしづに向き合って信仰をさせて頂かなければ、神様にお連れ通り頂く事は出来ないのです。)
神様の思し召しに従って通らせて頂きたいという心が少しでもあるなら、おさしづを拝読させて頂いて、おさしづに従って通らせて頂かなくてはいけません。そして「これは難しい、自分にはとても実践出来ない」と諦めない事がとても大切です。最初から完璧に出来る人間なんていませんし、そんな簡単に出来る事なら誰も苦労をしません。そもそも人間には、富士山のように積もり重なった埃や因縁が、びっしりと魂にこびりついているのです(少し言い方を変えると、自分の考えや価値観、我が身思案で凝り固まっているのです)。なので少し拝読させて頂いたからと言って、簡単に承知が出来る筈もなく、ましてや100パーセントの実践など出来る訳がありません。神一条の精神を持って、「出来ても出来なくても、これが大事なのだ」という心を持ち続けていれば、年限の理によって神様がだんだんと邪魔になっている因縁を払って下さいます。おさしづの理を心に持ち運ぶ道すがらで、人から反対されたり、馬鹿にされたりするのも、自分の気分気癖と戦っている最中も、言わば神様が胸の掃除の道をお連れ通り下さっている最中なのだと思います。「出来ないからやめた」と諦めて神様から離れてしまってはどうしようもありません。
これからハながいどふちふ(道中)みちすがら といてきかするとくとしやんを
このさきハうちをおさめるもよふだて 神のほふにハ心せきこむ
だん/\と神のゆふ事きいてくれ あしきのことハさらにゆハんで
このこ共二ねん三ねんしこもふと ゆうていれども神のてはなれ
しやんせよをやがいかほどをもふても 神のてばなれこれハかなハん
このよふハあくしまじりであるからに いんねんつける事ハいかんで
(おふでさき1ー57~62)
この信仰はだんだんの道であります。一段一段上がっていかねばなりません。信仰の年限と共に、神様と同じ価値観に近づいていかねばなりません。これは、このお道に引き寄せられた全員に漏れなく該当する話なのです。決して他人事ではありません。教祖は「心が変わらねばその信仰は嘘やで」とお話し下さっておりました。
おふでさきには
いまゝでハせかいぢうハ一れつに めゑ/\しやんをしてわいれども
なさけないとのよにしやんしたとても 人をたすける心ないので
これからハ月日たのみや一れつは 心しいかりいれかゑてくれ
この心どふゆう事であるならば せかいたすける一ちよばかりを
(12 89~92)
とお示し頂いております。
私達お道の者は、我が身思案の信仰から、世界救けの為の信仰へと心が変わっていくのが本当なのだと思います。こうした神様の思し召しが、お道を通らせて頂く上で何よりも重大な事なのだと気が付く事が、心が変わって来たと言う事であり、価値観が少しずつ神様に近づかせて頂いた証拠なのだと思います。そうして段々と心に治まった神様の理が「目に見えない徳」であり、末代の宝なのだと思います。
「目に見える徳」と「目に見えない徳」。どちらを求めて信仰をさせて頂くかは、それぞれの心次第でありますが、後で後悔しないように、どちらを求めて通るのが一番良いのかは、お互い様にしっかりと思案をさせて頂かなくてはなりません。
目に見える徳を頂く事は、人間にとってはうれしい事でしょう。お金だって、名誉だって、地位だって、あればあるほど人間は幸せに感じるかも知れません。しかし、その幸せは本当の幸せではありません。現代の大半の人間は欲を満たす事で喜びを得よう、心を満たそうと考えておりますが、それは大きな間違いであります。人間は喜び方を間違えてしまっているのです。欲望を満たせば満たすほど身を滅ぼしていく事になってしまうのです。欲望を満たす事で得る喜びには際限がありません。
よくにきりないどろみづや こころすみきれごくらくや(10下りー4)
欲に切りはありません。教祖は「欲から離れなさいよ」とお話し下さいました。欲を満たす喜びを求めて、神様に徳という器に財産や地位や名誉を沢山入れて頂いても、欲の埃や高慢の埃が積まれていく一方なのです。お金持ちで贅沢をしている人間は、高級な物でしか満足が出来なくなってしまいます。それだけ心が貧しくなっているのでしょう。
教祖は明日食べるお米が事欠く中で、「世界には食べ物を山ほど積んでも食べるに食べられず、水も喉を通らんと言うて苦しんでいる人もある。その事を思えばわしらは結構や。水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」とお話し下さいました。教祖は、欲から離れ心が澄み切れば、生かされている事自体に幸せを感じ、親神様の多大なる御恩恵に感謝して、満ち溢れる喜びの中で通らせて頂ける事をお示し下さったのです。幸せと言うのは、得るものではなく、感じるものなのでしょう。
幸せを得るために、お金や物で贅沢をしてしまえば、欲の埃が更に積もり重なるばかりなのですから、どんなに恵まれても心から満たされる事はありません。それでも心を満たす為に、更に贅沢を積み重ね、埃の心を積み続けるのでしょう。まさに「欲にきりない泥水」なのです。反対に、欲から離れ心が澄み切って行く事が極楽への道なのだと教えて頂いているのです。
もっと思案を重ねるなら、我が身が楽しむ為に徳を使ってしまえば、魂の徳も減る一方です。初代様は「人間として生まれるには徳が必要なんだよ」と教えて下さいました。魂に天のお与えを入れる徳(器)がなくなって来てしまえば、人間として通れる力をだんだんと失っていきます。更に、恩に恩が重なれば「牛馬の道」へと落ちていく事になってしまいます。
それに目に見える徳は、出直して生まれ変わった時にもって行く事も出来ません。棺桶にいっぱいの札束を入れても、ブランド物を沢山着込んでも、次に生まれて来る時は、徳のない貧相になってしまった心一つだけを持って生まれてくるのです。お道を知らない人ならいざ知らず、「かしものかりものの理」を教えて頂いている私達お道の信者は、人間にとって一番価値のあるものは何か、大切なものは何かを見誤ってはならないと思います。
現代社会は完全にお金に支配されております。皆がお金の力を信じております。お金があれば大丈夫、お金があれば幸せになれると思い、お金を手に入れる為に身体を売り、お金の為なら人に迷惑をかけても、苦しめても平気な顔をしている者もいます。
お道を通る者の中にも、神様の理をお金で得ようとする者さえいます。「何万円で助けてやる」と平気で人に話す者もいるそうですね。お金のお供えをして神様のお働きを頂こうと思って通っている人も結構います。そういう人々は、自分でも気が付かないうちに、神様よりもお金の力を信じてしまっているのです。
そもそもお金とは何でしょうか。お金は、人間にとって必要不可欠な衣食住を手に入れる為の取引に使う為に作られた道具にすぎません。一万円と言っても、その価値は変わっていくのです。ただ、一万円札に一万円程度の価値が保証されているだけの紙切れなのです。現在はこの一万円があればそれなりの物が手に入ります。しかし、何かの事でこの一万円の価値が下がって来てしまえば、一万円札一枚ではあまり物が手に入らなくなってしまいます。お金の価値が下がれば、今の一万円札がただの紙切れ同様になってしまう事だって十分にあり得るのです。人間が便利で使っているだけの物をいくら神様にお供えしたところで神様のお受け取りはありません。
「金銭の心は受け取りはない。心だけ金銭、何程の金を持って来て、今日からと言うても受け取るものやない」明治23年6月17日
「神一条は金銭ではいかん・・・金銭で出来る理ではあろうまい。神一条は金銭で出来まい」明治22年8月12日
「どんな事も自由と言うたる。自由というは、何程の金銭積み立てたと言うて成るものやない」明治35年10月7日
親神様は、世界中の人間を救けてあげたいばかりの御心なのだと教えて頂いております。
月日にハせかいぢうゝハみなわが子 たすけたいとの心ばかりで(おふでさき8-4)
そうした親神様の救け一条の親心のお手伝いをさせて頂くべく、陽気暮らし実現に向けての種を蒔く事が我々お道の信者の仕事なのです。その種というのが、まさに教祖ひながたの道であり「神様の為に、世界の為に、お道の為に」という心でおさしづの理に従って通らせて頂こうとする神一条の精神なのです。親神様が、我々道の者に対して求めて下さっている真実のお供えは「お道の為、世界の為に少しでも自分の幸せをお供えして不自由をさせて頂こう」とする真実の心なのです。自分の欲の為ではなく、ただ世界の為と言う欲のない真実の心をもって、親神様に尽くし運ばなければ(種を蒔かなければ)、神様が世界を救ける為に働く事が出来ません。
教祖は
「ああもしたい、こうもしたいという心があるやろ。その心を供えるのや」
と教えて下さいました。
そうした心を真実の種として神様がお受け取り下さり、一粒万倍にして世界の為に使って下さるのです。お金がいくら集まってこようとも、「お供え金」では世界救けの道は作れないのです。神様から求められてもいないのに、お金のお供えで事を済まそうとしたり、お金のお供えで神様のお働きを頂こうとするのは(そもそも拝み祈祷の神様ではありませんが・・)、神様ではなくお金の力を信じて、お金の信仰をしているのと同じだと思います。誠におこがましくも神様をお金で動かそうとしているのです。お金は大切なのですが、そこまでの力はないのです。
今の世界はお金中心で回っています。地獄の沙汰も金次第。お金さえもらえれば、平気で人の命や日本を売る者さえいるのです。人間は物を取引するだけの道具に心を奪われ、争い合って、命を奪い合って通っているのです。皆、お金に振り回されているのです。こんな馬鹿げた世界がいつまでも末代続く道理はないのです。
人間は、人間として生きている事が当たり前になってしまっております。しかし、それは決して当たり前の事ではありません。お道に引き寄せられた方々は十分にご承知の事と思いますが、私達が今この瞬間でも、人間として生きているのが当たり前のような顔をしていられるのは、ひとえに目には見えない親神様が、何一つ不自由のないこの身体を貸し与えて下さり、一分一秒お休みされる事なくお働き下さっているからなのです。
その健康の有難さは、病気になった時に初めて気が付くのです。病によって体が不自由になるほど健康の有難さが身に染みるのです。この健康はお金では買えません。人は健康な体が当たり前だと思っているから、そんな最も大切で重大な事を二の次にしてしまうのです。本来は、この貸し与えて頂いている身体こそ、人間にとって一番大切で何よりも価値のあるものなのです。
にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら(3-41)
にんけんハみな/\神のかしものや 神のぢうよふこれをしらんか(3-126)
神様は、いずれこの世界を甘露台中心の世界にして下さいます。甘露台中心の世界になれば、どんな人でも甘露を頂けば115歳の定命を保ち、更に進めば病まず死なず弱らないようになり、年を取る事もなくなるのです。200,300歳まで生きさせてやりたいとの神様の思し召しなのだそうです。また、心次第ではいつまでもいよとの仰せなのです。そして、人は半日仕事をして、半日遊んで暮らせるようにもなるようです。雨も五日に一回、夜に降るだけになり、傘もいらなくなるという事です。
神様がおぢばに甘露台を据えて下さって、甘露台中心の世界になれば、人間は本来の最も大切で価値のあるものに気が付かざるを得ないでしょう。お道の者は、こうしたこの世を治める世界救けの道を作る為の道具として、世界に先立って神様の道に引き寄せられているのです。
おさしづでは
「目の前の楽しみ、その楽しみは短い。先の楽しみ、細い道のようなれども、先の長い楽しみ。後でみれば短い。先は長い楽しみの道。よう思やんして、真実の楽しみ。あちらで抑え、こちらで抑え、通りにくい道も通る」(明治20年7月14日)
とお示し下さっております。
真の楽しみは、甘露台中心の世界になり、世界一列の心が澄み切り、喜びと感謝に満ち溢れ、神人共に陽気暮らし世界になり、親神様の御恩恵を十分に頂きながら、末代まで末永く陽気に幸せに暮らせる世界になった時に初めて訪れるものであります。その時こそが、おさしづでお示し頂いている「先は長い楽しみの道。よう思やんして真実の楽しみ」という事なのだと思います。今はその陽気暮らし世界建設の為に、神様の御言葉に従い、不自由の道を嬉しい心で通らせて頂く種まきの時旬なのです。
おさしづで
「どんな艱難もせにゃならん、苦労もせにゃならん。苦労は楽しみの種、楽しみは苦労の種、と皆聞いて居るやろう」(明治39年12月6日)
ともお示し下さっております。
こうした種まきの時旬は、いつまでも続くわけではありません。いつか必ず神様の一列御支配による世界救けの本道が始まる日が来ます(おそらくそんなに遠い話ではないと思います)。その本道が始まった時、お道の者は、現在の仮の道(種まきの時旬)で通らせて頂いて治まった心が、末代の理に定まってしまうと言う事はしっかりと承知して置かねばなりません。末代の理に定まってしまえば、もう通り返しは出来ません。この重大な世界救けの種まきの時旬で、お道で積ませて頂いた徳を使って我が身が楽しんで贅沢して通ってしまえば、末代徳のない、貧しい心のまま通る事になってしまうのです。後悔しても仕切れない結果になってしまうのです。この種まきの時旬で徳を使って自分が楽しんで通っておれば、先々で楽しむ種はなくなってしまいます。今の目の前の楽しみは短いのです。お道の者は、今は楽しむ時期ではないのです。
現在の仮の道(世界救けの種まきの時旬)で、我が身が楽しむ為の「目に見える徳」を求める信仰をするのか、世界救けの為の「目に見えない徳」を求めて信仰をするのか。この違いは大変大きいのです。それこそ天国に行くか、地獄に行くかというくらいの別れ道になると言っても過言ではないのです。
現在のお道で恵まれている事が徳のある姿だと考え違いをしてしまい、必要以上に贅沢な暮らしをしている人や、自分の幸せの為、神様から御褒美を頂きたいと願い、見返りを求めるような信仰をしている人は、一刻も早く神様にお詫びを申し上げて、心を入れ替えなければ、後悔しても仕切れない道を末代通る事に成ってしまいます。
しかし、おふでさきには
月日にはどんなところにいるものも 心しだいにみなうけとるで
いまゝでハとんな心でいたるとも いちやのまにも心いれかゑ
しんじつに心すきやかいれかゑば それも月日がすぐにうけとる
月日にはせかいぢううハみなわが子 かハいいゝばいこれが一ちよ
とお示し下さっております。今ならまだ十分間に合うと思います。神様を思う心があるなら、今一度自分の胸に手を当てて、今の通り方で良かったか、本当に神様の思し召しに添って通らせて頂いているか、お互い様にしっかりと思案させて頂かなくてはならないと思います。
神様はおさしづで
「世界から神の理を見て鏡屋敷と言うのや。鏡というは何処から何処まで分かるが鏡屋敷。聞かにゃ分からん事ではどうもならん。もうこれ年限に徳を付けてある。心だけ皆それ/\授けてある。めん/\徳が付けてある。その徳だけをめん/\よう働かさん。第一どうもならん。鏡曇らしてはどんならん。鏡やしきに曇りありては救ける事は出けん。しんが濁れば傍が皆濁る。濁せ/\、濁してはどんならん。それ/\の処より濁す者ありてはどんならん」(明治22年7月31日)
とお示し下さっております。
神様は「年限に徳を付けてある、その徳だけめん/\よう働かさん」とお示し下さっております。神様が私達道の者に対して、年限に徳を付けて下さっているのは、お道の為であり、世界一列陽気暮らし実現の為なのです。その頂いている徳をどのように使うのかは、それぞれの心次第なのですが、冒頭でお話しした通り、今天理教組織全体が目に見える徳を求め、我が身の幸せを求めて進んでしまっております。芯が濁れば、その傍の者が全て濁ってしまいます。一人一人の心の芯も我が身思案の心で濁ってしまいます。お道の者の心が我が身思案で濁ってしまえば、鏡屋敷であるおぢばも曇ってしまい、その曇りが世上にも映ってしまいます。お道全体がいつまでもこんな方向性で通っていては世界が救かる日は来ません。
教祖140年祭まであと僅かです。後で後悔のないように、お互い様にしっかりと神様の思惑に添って通らせて頂きましょう。